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壊失忘思想体

壊れる、失う、忘れる、
これらが本質的に人間を取り巻く世界を捉えている。

例えば今いる自宅は明日にも地震や津波によって倒壊するかもしれないし、耐久年数は長くても200年と言われている。1000年後には原型をとどめているかわからない。

都市計画の中で取り壊しもあるだろうし、息子たちが立て替えるかもしれない。

その時は意外と一瞬で、隣のお宅が取り壊された時は、1週間程度で建物がなくなり、1ヶ月程度で新しい家が建っていた。前の家がどんな形でどんな構造で庭にはどんな植木がならんでいたのかは、今となっては忘れかけている。

壊れ、失われたものは、次第に忘れていく。「そこにある」は記憶のインデックスでもあり、「そこにない」は記憶のデータベースに対して自力でアドレスを検索しなければならないテーマになる。

アクセスされないほどにシナプスの結合は解かれていく。次第には不要なデータとして、脳の深くへ沈み込んでいき、いつか睡眠による記憶整理で消去されてしまう可能性を高めることになる。

ネットサーフィンでたまたま見た記事に二度と辿り着けないように、旅先で話した地元の人の顔が徐々に思い出せなくなるように、「そこにある」が「そこにない」に変わったことをきっかけに時と共に自分の世界から失われていく。

土深く埋もれていた恐竜の化石は展示されることによって「そこにある」に変わる。

そこになかったものが「そこにある」に変わったことで、人の世界に存在感を示す。子供たちにはロマンの対象として映り、研究者たちには歴史を紐解く重要素材となる。

ピラミッドやアンコールワットなどの遺跡は長年「そこにある」ことで人の記憶からは消えることがない。当初の目的とは大きく異なり、何らかを祀ることから観光の対象へと変貌は遂げても、物体として存在し続けることで忘れ去られることがない。

人間を取り巻く世界は、いまやデジタルデータに支配されているようかに思えるが、これも中間的な物質として扱うことができる。

PCやスマートフォンの電源を切れば存在しないが、一方で誰かのPCで表示され存在していることにもなる。

ピラミッドは日本に住む私の周辺世界には存在しないが、エジプトの現地民にはいつも存在していることと似ていて、回線が切れれば次第に忘れ去られることだろう。

人は死ねば骨となり、物質としての墓や遺影に姿を変えることとなる。生きていた形跡は次第に失われる。現在まで個人で生きていたことを明確に伝えることが難しいことは、歴史の授業の登場人物の名前を思い出すことでも分かる。

世界最古の個人は、紀元前3500年ごろ、古代メソポタミア文明の粘土板に記述が発見された「クシム」という人物であるそうだ。

「物体」として「そこにある」その粘土板があったからこそ、約5500年後の我々がその彼(または彼女)を知ることとなったのである。

人もまた壊れ、失われ、忘れられる。

1000年後に私個人を示す何かを残せているだろうか。

戸籍データが全て消え、歴史書が全て燃え尽き、日本が沈没し、核戦争によって人類が滅びた後、地球の大地を踏みしめた次の知的生命体が、私個人を認識することはあるのだろうか。

人間を取り巻く世界は、忘れ、壊れ、失われる連続であり、それが終末までも、終末後も続いていく。

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