満たされる事を許さない社会

約1年ぶりのnote更新となる。
まずこの1年をざっくり報告すると、

2019年11月:新卒より10年働いた資材メーカーを辞めて、全く畑違いの広告系会社に入社する。

2020年1月末:会社雰囲気や仕事内容に付いていけず、精神的に限界を感じて、友人に相談する。

2020年3月:友人が勤めている会社(メーカー)に、友人の推薦で入社を決める。

2020年5月末:広告系会社を退社

2020年6月:メーカーに再就職

現在に至る。


といった感じだ。
要するに、10年勤めた会社で物足りなくなって、「意識高い系」のベンチャーに転職したけど、意識の高さや仕事量、ノリに木端微塵に打ち負かされて、また同じような風土の会社に出戻ってきたという感じだ。
過去のnote投稿を見返しても、この1年でだいぶ自分の中の価値観が変わったように感じる。
いや、変わったというより、自分に出来る事や出来ない事、好きな事、嫌いな事、合う事、合わない事を少し冷静に判断できるようになったという表現の方が正しいかもしれない。
1年前、僕は自分の人生を決まったレールの上をただ走っている何ともつまらないものだと感じていた。このレールを一歩横に逸れたら、そこには様々な素晴らしい世界が広がっているように思えて仕方がなかった。

結果的にレールを外れてみて分かった事が、外れるレールを間違えたという事。
そして、求めていた世界は現在の日本では実現難しいという事。

1年前のnote投稿からも読み取れるように、あの頃の自分は、
”「成長」こそ正義、成長意欲を持ち続け、日々行動する事が成功を掴み取るという唯一の方法である”
という事を疑いもしなかった。
しかし、最近になって思う事は、「成長」を追い求めた先には何があるのか。目標にいざ辿り着いた時、また違う「成長」を強要されるのではないかという社会への絶望感。
僕からしたら成功して幸せ者にみえる、ビジネスで成功した経営者、お笑い芸人、スポーツマン。そんな人たちのネット記事や本を読んでみると、十分な功績をあげているのに、いまだに満たされない気持ちを抱えて、競争社会中で戦い続けている。それが美学として社会の人たちから憧れを集める。
甲子園出場を目指して頑張ってきて、念願の甲子園出場を叶えた瞬間、周りからは「出場が目的ではない、ここで勝ちに来たんだ!」と目標がすり替わり、仮に全国優勝しても、じゃあ次は春夏連覇、プロ野球に挑戦・・・とどこからともなく目標をリセットされる。
情熱大陸や、プロフェッショナルの締めでは必ず、次の挑戦が語られているし、万が一、やり遂げて次の挑戦をしない人が居たならば、「燃え尽き症候群」というまるで病気のように扱い、目標もなくフラフラしている人をニートだのとバカにする。
世間は、どうして挑戦や成長をこんなにも強要してくるのか。

そんな時、オードリーの若林さんの「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」を読む機会があった。
そこには僕が疑問に感じていた成長志向への強要は、新自由主義という社会システムで決まっている事、そんな社会システムから逸脱するには、「血の通った人間関係」を構築する事だと記されていた。
競争とは関係のない人間関係こそ、若林さんが求めていたものでありキューバへの旅行を通してその事に気づけたという内容だった。

ああやっぱり、若林さんほどの成功者でも競争や成長を強要される事に疲弊しているんだという共感と、じゃあ自分はどう生きるのが良いのかという疑問が生まれた。
自分は若林さんほど、社会に疑問をもったとしても深く考える事も悩む事もできない、だって考える事は辛いから。
自分の意見が別にないから、強い意見・主張を持った人の話を聞いても、これといった反論も思いつかなく、「確かにそうだよな」と思ってしまう。

そもそも、そうやってすぐに他人と自分を比べてしまう時点で、僕は十分に現在の社会システムに毒されている事を実感する。

うまくまとめることはできないが、この本はとても面白かったという事だ。


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