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病床経過報告⑨転がる岩と偶然性

 フランスの小説家であり哲学者であるアルベール・カミュは『シーシュポスの神話』という一風変わったエッセイを残している。神々の怒りを買ったシースシュポスは、山頂に向かって大きな岩を押して運ぶという罰を受ける。幾ら山頂にその岩を運んでもその度に転がり落ちてしまい、また山頂に向かって運んでは転がり落ちてを繰り返さなくてはならない。不条理の哲学とは、まさに北欧の哲学者のラース・スヴェンセンは『働くことの哲学』の中で、シーシュポスの顛末に達成さえることのない意味なき労働、拷問としての労働を見い出したが、私の闘病生活もまたこれに近いような感覚があるのだった。則ち、治療と再発を繰り返すループ現象は、転がり続ける岩を頂上に向かって延々と運ぶようなものではないか、と。

 「悪性リンパ腫」という病気が発症してから来月でもうすぐ1年になる。1年もあったら一体どんな事ができただろうと時々考えるし、叶うならばこの一年で起こったことをさらっと無かったことにしてしまいたい。膨大な時間とその先にある沢山の可能性を奪わたという感覚が今でも強くあり、痛みと苦痛と先行きの分からない不安には耐え忍んできた。それでも、耐えても耐えても必ずしも報われないことはあるようだった。時折、自分の直面している現実が信じられなくなるが、人の願望と欲望とをドライヴするポジティブな言説のように、自己も現実も捻じ曲げることはできそうもない。私の脳と目は現実から目を背けるためではなく、それ直視する為に付いているのだと信じている。現実を直視しなければ最善の一手を打つことも儘ならないのだ。戦局は、少なくとも私の見立てでは、最終局面に差し掛かっている。万難を配して攻めの一手を投じてきたが、未だ攻めきれずにいる。次の戦術は練ってあり、その為の布石も既に打ってある。必ずしも盤石な体制ではないが、詰まるところこの手に賭ける他ない。

 今回の治療の最終目的はCAR-T細胞移植を受け、根治を目指すことだ。その為の前処置として抗がん剤の投与を行い病変をできるだけ小さくしていく。現在はその工程が大体終了したところ。治療全体のアウトラインが次のようになっている。抗がん剤投与×2サイクル(3月末〜5月中旬)→CAR-T細胞移植(5月中旬〜6月中)→退院。
 抗がん剤には様々な療法と薬の種類があり、病状によって使い分ける。初発の際には一定のセオリーが決まっているが、再発の場合はそれがないらしい。薬も人によって相性があるようで、試してみないと効くかどうかが分からない。今回は今まで使ってない種類の薬が多いECHAP療法を選択。(薬の種類:メチルプレドニゾロン、エトポシド、シタラビン、シスプラチン、リツキシマブ)2回の投与が完了して現在は様子を見ている。全体の治療の計画としては進捗率約60%程といったところだろうか。最終の効果測定はまだだが、途中経過の検査を見ると病変は確実に縮小している。ひとまずは無事に次の治療、CAR−T細胞移植に無事臨むことができそうだ。
 CARーT細胞移植とは前回にその詳細を記したが、ごく簡単に表現するならば「免疫細胞を人工的に強化して癌への攻撃力を高める」免疫療法のことだ。CARーT細胞は、予め採取した患者自身のT細胞(免疫反応を司るリンパ球の一種)に癌細胞を認識するアンテナ(キメラ抗原受容体:Chimeric Antigen Recepter)を人工的に付与し培養してつくられる。この細胞を投与して免疫システムが癌細胞の攻撃を行い、治癒することを期待する。製品名は「キムリア」で、患者1人あたりの薬価が3000万円を超える、非常に高価な薬品として議論を醸したらしい。2018年にアメリカとヨーロッパで承認され、日本ではB細胞型リンパ腫の治療薬としてキムリアの保険適用が2019年5月にされている。ネットで調べていると、それなりに高い治療効果が報告されている、という事はわかった。新しい治療法であり、保険が適用されなければとてもではないが受けれる治療ではなかった。キムリアの製造はアメリカの施設で行われている。アメリカから薬が到着次第、東北の病院に入院して治療を行う。5月19日がその日の予定となっている。

 人体とは様々な細胞と細菌の相互作用によって動的に平衡が保たれている。そこに介入があればあらゆる箇所に何かしらの反応が起こる。良い方向へ反応を起こすのが治療というものだが、悪い方向の反応も当然発生する。今回のCARーT細胞療法にも広範なリスクが懸念される。一個一個挙げていったらキリが無いのだが、代表的なものは「サイトカイン放出症候群」。これは、CARーT細胞の活動が活発になるとサイトカインという物質の放出が始まり、正常細胞への攻撃もおこなってしまうので体の様々な部位で炎症反応を起こす事。これは治療を始めてから短期間の間に高確率で発生し、場合によっては集中治療室での治療が必要になる。その他、神経系の事象、血球の現象、脳浮腫の可能性など恐ろしい副作用が軒を連ねている。とはいえ、リスクがあるから止めましょうという段階ではもはやなく、日々が緩慢に進む中で切迫した状況であることは認識している。リスクヘッジとリスクテイク、長期と短期の時間軸の入り混ざった複雑なバランスの上で治療が成り立っていて、その種種雑多な「有り得てしまうこと」についてしばしば考えを巡らせてしまう。
 癌細胞は突然変異によって現れて、体の信号の命令を聞かずに延々と増殖し続ける。なぜそんなことが起こるのだろうか。遺伝子や生活環境、食生活など身体を巡るあらゆる物事の相互作用の連鎖の結果であり、膨大な乱数と乱数との掛け合わせの結果だ。厳密にその原因を特定することはできない。その意味で、癌になるということ自体がそもそも「偶然」であったとも言えなくはない。私の中には偶々“ブラック・スワン“が存在していたのだった。人間であれば当然の事ではあるが、不確実性が顕現したのはこれが初めてのことであった。今回の病気で偶然性の負の連鎖の恐ろしさは身を持って経験したものだが、一方で治療の過程で起こる可能性のあったが起こらなかったこと(腹膜炎・肝炎・肺炎・吐き気など)も沢山あった。今までも幾重に重なる偶然性の網の目をかい潜ってきたし、これからもそうだ。私はたまたま「何も起こらなかった事」を後景へと追いやり、たまたま「起こってしまった事」を強く認識してしまうようだ。高度に発達した現代医療を持ってしても、コントロールできることとできないことは残念ながら存在する。起こりうる事態は想定しなくてはならないが、今回の治療も現代医療と医者を信頼して、偶然性の網の目に掛からぬようにと願いながら、その身を委ねるしかない。
 昨年出版された、癌を抱えながら思考する哲学者・宮野真生子さんと、それに向き合う人類学者の磯野真穂さんの往復書簡『急に具合が悪くなる』において、「分岐ルートのいずれかを選ぶとは、一本の道を選ぶ事ではなく、新しく無数に開かれた可能性の全体に入っていくことなのです。」と書いてあった。「動的に変化する全体」が目の前に広がっていて、それは必ずしも悪いことだけではない。

 『シーシュポスの神話』において転がる岩を運ぶシーシュポスの顛末はこうだ。「これほどおびただしい試練を受けようと、私の高齢と私の魂の偉大さは、私にこう判断させる、すべてよし」。自分の身に置き換えると、全く共感できないし、そんなものたまったものではない。負の連鎖から今度こそ抜け出したい。転がってくる岩ごと叩き割ってしまいたくなる。今回の治療がその起爆剤になってくれること、無事に退院できることを強く望む。カミュの不条理に抗いながらも治療は進む。退院までもうすぐだ。

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