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note、はじめました

●ご挨拶

はじめまして!
株式会社バフの工藤です。

"人々の暮らしを豊かにしたい"

という志を持って、大阪を拠点にライフスタイル企業の経営をしております。
主な事業は小売業ですが、その他にもプロデュース業や卸売業、OEM事業など縁あって様々な仕事をさせていただいております。

こちらのnoteでは、私自身が日常で感じたことや学んだことを備忘録として「いつかどこかで何かしらの役に立てば」と思い、始めることにしました。
以前はAmeba Owndというアプリで書いていましたが、なかなか続かず…一念発起して、流行りのnoteにチャレンジしました。
今後は改めてこちらで更新していきます。
よろしくお願いします。

…誰が興味あんねん!

●自己紹介

兵庫県生まれ、大阪育ちです。

当社は生活雑貨を中心に事業を営む小売業であり、現役バリバリのオーナー企業。先行き不透明な業界に身をおく自社の経営立て直しという使命を持って、専務取締役として6年前に就任しました(2021年時点)。
※2024年より代表取締役に就任しました。

余談ですが、学生時代はスラムダンクの影響でバスケットボールに打ち込みました。背が伸びると思っていましたが、さほど伸びずに悔しいです。

▶︎新卒入社は百貨店の婦人服

さて、遡ること約15年ほど、私は関西の四年制大学を卒業してから、新卒で電鉄系の百貨店に就職しました。
就職活動中は広告代理店やアパレル、商社なども視野に入れていたものの、様々な業界を比較した結果、学びの観点から総合的な小売業種にチャレンジすることにしました。
心の中では…

いつか独立して自分の会社を持ちたい
世界の役に立ちたい

と漠然と考えながら、およそ10年ほど勤めることになるのですが、そこで得た出会いや知識、経験は全て今の自分の糧となっています。

当時は"小売の王様"とまで呼ばれた百貨店で、花形のお仕事といえば婦人服。
当時の私は「紳士服が良かったんやけどな…」と心底哀しみつつも、花形部署である"婦人服営業統括部(名前合ってるかな…)"に配属。

そこからキャリアをスタートさせました。

その後は様々なカテゴリー(若い子たちから年配の方々のファッションまで)を経験させていただき、入社4年目を迎えた春、婦人服商品部(バイヤーという職種)に異動。
世間のことを何も知らない若造が会社の看板を背負い、そこから伸びた鼻をへし折られ、ボロンちょになるまでにそう時間はかかりませんでした。

バイヤーになって半年ほどで突然、当時の専務に呼ばれ「東京にゆけ。」とドスの効いた声で大阪と東京(人事に何故か西葛西のマンションを提案され、それを拒否してホテル暮らし)の兼務辞令を出されたり…
今となっては懐かしい神戸コレクションや関西コレクションを一度に担当になってしまい、毎晩日が回ってから(0時以降)商談していたり…
仕事が辛くて悩んでいた時に上司や先輩たちにたくさん飲みに遊びに連れて行ってもらって、カラオケで流れる懐メロにめちゃくちゃ詳しくなったり…

しかし、何とかその試練の時を乗り越えて…とは言うものの、上司や仲間、お取引先様に恵まれ、がむしゃらに立ち向かっていった仕事はとても楽しく、異動辞令を受けた時は寂しさを覚えました。

なるほど花形たるやその組織力、個人のスキルは確かに凄まじかった(当時は)部署でした。

▶︎職務転換の初異動は事業開発

その後、事業開発をする部署が新設されて、そちらへ異動。初の職務カテゴリーを越えた異動だったので、楽しみと同時にドキドキが止まりません。社内外で折衝する方々も上席が多く、改めて気持ちを引き締めつつ臨みました。

「あと10年以内に百貨店の売上を1割に
 その他事業の売上を9割に育てないとダメだ。
 そのために君たちがいるんだ!」

…当時の会長の先見の明は今思えば素晴らしく、しかしながら「ほなら僕を呼ぶんは違うんちゃいますか…」と心の中で叫びつつ、これまた没頭する仕事に出会えて幸せでした。

事業開発といえば聞こえはいいですが、毎日毎日、手探りで様々なビジネスの芽を見つけては捏ねくり回し…
本格的な投資前なので、コストのかかるテストができない中、マーケティング論をひけらかして机上の空論を叩き合う世界。プレゼンに負けないため、おそらく月に2.3冊ぐらい本を読んでいたと記憶しています。
しかし、フレームワークを使うことに慣れすぎ、実践を掴んだような感覚に陥り、その感覚で後々苦労することになります(長くなりそうなので割愛しますが…)。

私「AKBみたいなアイドル事業をしよう!」
→「秋元康ぐらい考えてから言わんかい!」

私「駅構内にネイルサロンと保育園を作ろう!」
→「駅の売店に交渉してこんかい!」

私「…イ、インデアンカレーをやりたい…」
→「それはアリやな!交渉してこい!」
 ※とても美味しく関西で有名なカレー屋さん
 ※もちろん無理でした。

私のしょうもないアイデア(こんなやり取りが100回くらいありました)は何もカタチにすることはできませんでした(そりゃそうだ)が、今思えば、この頃から"経営"という仕事が自身にとってリアルになってきました。

「会社とは、事業とは、誰のため?」

そして、そんな悪戦苦闘の日々ではあるものの、当時の部署からロンチした事業がいくつかスピンアウト(事業子会社化)していく中、私が担当する事業も独立した子会社として本業の外で事業化することに。

事業も新体制で走り出して「さぁ!今から攻めるぞ!」と意気込んでいたまさにその時、家業である今の会社の経営を担うことになりました。


本当にお世話になった会社であったし、何よりも上司・部下、先輩・後輩問わず、一緒に過ごした仲間たちと離れるという事実が悲しかったことが記憶に新しいです。
今も大好きな会社だし、関西経済、ひいては国民生活を支える一大事業者であることに憧れの念も抱きつつ、期待も込めて応援しています。

しかし、退社した後、会社経営をしていく中で実践する貴重な経験の積み重ねから、人間的な成長局面を多々迎えることができました(その分辛いことだらけではありましたが…)。
さらに新たな仲間たちと出会い、共に切磋琢磨していく日々はとても充実しており、これまでの仲間たちとも離れずに繋がりも持てています。
つまり、あの時の決断は全くもって間違ってはいなかったと胸を張って叫べます。

▶︎人生の第二幕、エンジン全開経営職

そうして、人生の第二幕が上がり、"会社経営"のフェーズがはじまりました。
華々しくなんてことは全くなく、当時の厳しい自社の環境や私自身の力不足により、お恥ずかしながら何度も何度も非効率な決断を繰り返しました。

そうして痛みを持って学んできた約5年間。

ハリキリすぎる自身の傲慢さにも気付き、熱意だけでは何も具現化しない現実を知りました。
もちろん論拠だけでも何も実現しません。
特に教科書通りのフレームワークなどは¥1にもならず(実際は必要な局面ばかりですが、それだけではいけないということ)、「事業とは人なのだ、現場なのだ」と頭でしか考えてこなかった経営のリアルを心から理解しました。

会社とは、事業とは、誰のため?

ここが肝心要の心臓部分。

最も力を入れるべきは未来であり、どんな道しるべを描き、未来を視せていけるのか。
そのためのエンジンをいかにして作っていくのか。いかにして、エンジニアたちを巻き込んでいけるのか。
まだまだ道半ば、描いている途中であり、何も果たしていないへっぽこ経営者です。

そんな私についてきてくれているスタッフたちの想いと力、協力してくれているお取引先のみなさま、支えてくれる家族によって現在のようなウイルス禍の最中でも経営を続けることができています。

感謝してもしきれません。

ありがとうございます。

そして、これからもよろしくお願いします。

▶︎そんなオッサンの備忘録

というわけで、そんな私の備忘録も兼ねたnoteをこれからも気が向いたら更新していこうと思っております。
何か事業に役に立つこと、世の中に対して感じていること、改善したいこと、新しくチャレンジしたいこと…
まぁやりたいことや妄想して考えていることは枚挙にいとまがないので、きっと書くことに困ることはありません。
ただ、ちゃんと続くのか、決まって更新できるのか、が当面の課題です。

今後とも何卒、よろしくお願いいたします。

…誰が興味あんねん!!

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