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それは美なのか

美しさとセクシャル、これは明白に区分できる事だ。美とは大自然のような普遍的な美しさであり、対して女性の素肌に影響される美しさは一過性のリビドーであるから美ではない。
しかしこの中間の曖昧さが存在する。例えば和装をした女性の美は美なのだろうか?
和装の美しさはある程度普遍的な美しさであり、またそこにセクシャルさはほぼない、ゼロではないにしろである。
よく和装の女性に対してわずかに見えるうなじにセクシャルさを感じると言う意見がある。和装の美しさにはセクシャルさがあるのも事実だろう。
しかしそこにあるのは健全な美なのか?大自然の美と何が違うのか。
和装ならずとも女性が洋装で着飾るのにセクシャルさがないような服装もある。スーツ姿などだ。しかしそこにある生真面目さの中にやはりセクシャルな感情があるようにも思える。
見えない、隠してるが故のセクシャルさだ。見えない、隠されてるが故のセクシャルに対してその全容を見たいと言う征服欲がそこに生まれる。
山は険しいから行くのが困難だから意味があるのだ。非常に男性的な野心がそこにある。
しかしそれは女性を性的な物質として彼女の人間性そのものを隔離したものであり、征服者にとってその人間性そのものはほとんどどうでも良かったりするのではないか。
そう考えた時、その上にあるのは愛情でも増して性欲ですらない、ただ征服者としての征服欲である。
それは醜いものだ。
だとしたらやはり私たちが見る、女性への美しさがいかに直接的なセクシャルでなくてもやはりそこにある征服欲があるかぎり、それは美ではないのだろう。
そもそも女性を美術品としてみるのが女性の人間性を排除してる。どんな人間でもその心の内は醜い。むしろそれを見ない、隠されてるからこそ、その内面の美しさを想像して美しいと感じる。
しかし一歩そこに踏み込んで仕舞えば美しい薄い雪道に足跡をつけたような汚点になる。
エベレストや富士山に何人、登山者という人々が登ってもそこに真の征服はない。真の征服とはその山の造形を変えてしまうほどそこに人間が手を加える事である。
それができないが故に、真の征服は果たせない大自然の美しさがそこにはある。私たちはやはり動物としての征服欲を持っていてそこに動かし難い美を感じている。

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