移民と社会有機体説

このところ日本でも移民問題の議論が盛んである。2017年の『社会的分断を越境する-他者と出会いなおす想像力』(https://www.seikyusha.co.jp/bd/isbn/9784787234117/)や、2019年の『ふたつの日本-「移民国家の建前と現実』(https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000321022)など、予兆はあった。財政学界にもその波が押し寄せているとみて良かろう。この問題について、何人かの財政の専門家と議論することがあったので、思うところを書きたい。我ながら保守的だなぁと思うが、ここでリベラルに挫けて欲しくはないので、エールのつもりで議論を整理する。

前提の議論はかなり端折るが、財政学では一般報償性原理が重視される。この原理が言うところは、租税の支払いと、公共サービスの受益は無関係だ、と言うことである。一般報償性に対するのが個別報償性原理で、こちらは経済的取引は、その都度、そこで清算されるべきであると主張する。市場経済の大原則である、等価交換の原理である。互酬性は、人間や共同体同志の信頼関係をてこに、その等価交換の時間を延長する。長期的に対等な関係を維持できなければ、信頼が損なわれることになる。その点、共同体内(例えば家族)での経済関係は贈与である。原理的に贈与は、対価の一切を放棄する。ここは学説上の議論はあるものの、私は一般報償性は贈与の延長線上に理解するのが、適していると考える。ヴァーグナーが国家を強制的共同体と考えたことは、財政の原理が贈与の延長線上に位置付けられることを意味したのだと解釈している。

財政学で一般報償性が主張されるには意味がある。なぜならば、税を払えないものが、国家の庇護を受けられないのであれば、子どもや老人や障碍者など、社会に貢献しない、できないものから権利を剥奪する、と言うことにならざるを得ないからである。性的少数者非生産説は保守派の間では根強いが、これは”石女”といって子供を産めない女性を激しく差別したことと同根である。現代経済学は、子どもを作ることだけが共同体への貢献であるとしない。生産や消費に従事すること、そのものが経済的な貢献だからだ。マクロで共同体を維持できる子どもの数を維持することと、ミクロでの生殖行動は分けて考えるべきだろう。生産と”消費”ということにも大きな意味がある。ケインズ以降の経済学では、社会全体での消費不足が、不景気や失業などの経済問題を引き起こしていると考えるからだ。消費する能力さえあれば、すなわち生きてさえいれば、その社会での経済的な価値を認められる。話は財政学に戻るが、だからこそ、受益と負担はリンクさせて論じてはならない、とされてきたのである。負担を全くせずに消費のみ行うものも、その人権は守られ、生活が保障され、消費の一翼を似ない、願わくば社会との繋がりを維持する。これが財政学のビジョンである。唯一、閉じられた地域に関しては、その集計された受益と負担をリンクさせる議論はあった。それが地方自治であるとされてきた。このことは、あとで関係してくる。

さて、ところが、である。この受益(消費)と負担(生産への貢献)を分離する議論に意を唱える議論がなされてきた。ひとつはメカニズムデザインで、フリーライドを防ぐためには、公共財の評価を明示させる必要があり、所得と公共財への選好によって負担を決めるべきだと主張されてきた。もうひとつが、財政社会学で、受益者として包摂されない中高所得層が租税への反抗を強めるので、誰もが受益者となることでその租税抵抗を和らげることが必要だと議論されてきた。受益があるから、負担を認めると言うこれらの議論には、現実的には受益から排除される人たちがいることで社会的分断を産む側面があるために、それに対する政策論的意義があるのだが、古典的財政学の本流からはかなり外れた議論をしていたといえよう。

類似の議論に移民の貢献、と言う議論がある。移民へのヘイトや積極的・消極的差別に対して、いや移民は日本社会の役に立っているんだ!という貢献原則に基づいた擁護である。もちろん、役に立たない移民はいらない、と言うこととの表裏一体の関係なのであるが、技能実習生によるひたすら安価な労働力の使い潰しか、高度技能労働者に限定して移民政策を進めてきた日本政府の立場と一致した見解ということができよう。これに対して心ある財政学者たちは次のように反論する。一般報償性原理からすれば、貢献度とは関係なく生活に必要なニーズは保障されるべきなのだと。そして、実際の補助金の事例を分析していくことで、2段階の論理で外国人に特有なニーズを国家が保障するべきなのだと論を進める。

第一段階は地方行政(とその先にある自治)である。実際に外国人が住んでいて、結婚して子どもがいたりして、または失職して貧困状態にあったりする。このことに行政は対処せざるを得ない。住民の福祉増進が地方政府の使命であるからだ、と説明してもいいし、そのような外国人を放置することが地域の治安を悪化させるかもしれないからだ、と説明しても良い。いずれにしても、自治体は外国人への対処をしている。しかし、そこには財源がない。現場の努力で、なんとか補助金を活用したりしているが、国は基本的に、いずれの地域にもある普遍的なニーズだ、と言う立場ではない。

そこで第二段階として、交付税の基準財政需要額に外国人子女の(特別ではない)教育費が参入されていること、特別交付金等で特別な”ニーズ”について手当てしていることを強調し、改革の方向性としては”一般財源化”、すなわち交付税での対応が望ましいと結論づける。話の流れとしては、一見良くできているのだが、私にはここに理論的な不整合があるように見える。このことについて、少し丁寧目に説明しよう。

外国人の住民がいることによって、そうではない場合と比較して発生する諸問題が、財政学的な意味でニーズ、すなわち(自治体間で偏在していたとしても)普遍的な財政需要、すなわち共同需要であると言ってよいのか。ここに、少なくとも4つの理論的な立場があるように見える。この四つの立場に、便宜的に「民主主義」「自治主義」「貢献主義」「共同体主義」と名前をつけて、それぞれ説明していこう。民主主義の立場によれば、民主主義的な決定は望ましいものであるとする。これは地方自治のレベルでもそうだし、国家レベルでもそうである。民主主義の立場に従えば、実現している制度は望ましいもの(望まれているもの)ということになる。従って、交付税や特別交付税で外国人のニーズに対応することは、望まれたものなので喜ばしいこととなる。もちろん、現行の民主主義を実現する制度が完璧なわけではないが、問題があるとすればその制度にあるのであるということになる。おそらく、今後の地方-中央関係や、文科省-総務省-財務省関係の中でのやり取りの中で、(選挙時に国民的議論が沸き起こるかどうかは別として)実現していくであろう制度を先読みし、実現するに従ってそれらの制度を無限に肯定することになる。民主主義の危うさについては、理論的に触れてはいるものの、どうも”考慮”しているようには思えないが、いずれにせよ彼らの議論は民主主義の立場に立ったものだ。

自治主義は民主主義と似ているが、非なるものである。自治主義によれば、例えば外国人に特有のニーズは国家レベルで”普遍”的なものでなくとも良い。財政学では、ナショナルミニマム的に保障が明示されなくとも、それぞれの地域においては重要な”ニーズ”を充足することを推奨する。その場合、原則的には地方税(の増税)によって対処することとなるが、ペイアズゴー的に他の予算を削減して費用を捻出することもできる。いずれにせよ、住民自治に基づいて運営される自治体が、その地域に特有な外国人ニーズを充足することは、自治主義からは肯定されるし推奨されるが、その負担を中央政府に求めることは筋違いとなる。

三つ目が貢献主義である。貢献主義は、狭義には財政的な意味で社会に貢献しているかどうかが基準となる。ニーズが普遍的かどうかという議論は不要である。ニーズ⇨受益の総額と、負担⇨納税額の総額で、後者が大きければそのニーズを認める意義があり、少なければ意義がないというように判断するからだ。外国人住民は、平均的に見れば高齢ではなく、平均的に見れば労働力人口が多いため、財政的な貢献度は高い。これをミクロに当て嵌めれば、納税しない外国人は出ていけ、ということになるが、財政学の一般報償性を維持すれば、マクロで貢献していれば全体として認める、という構造になる。広義では、社会的な貢献度ではかることになるが、これは実証はかなり難しいだろう。貢献主義は、実の所自治主義とかぶる部分が大きい。というのは、日本の財政学では、地方税は”応益”的であり、会費のような”共同負担”であるとされてきたからだ。税制史の中で最悪とされる人頭税が、部分的には日本で採用されていることの、法的/理論的根拠となっている。応益負担というのは、受益に応じた負担を、ということである。あくまでも租税理論なので、個々人の受益と負担を比較することは間違っているが、トータルとして外国人/非外国人の受益と負担のバランスが取れていることは要請される。そういう意味では極めて自治主義と近いのだが、前者が意思決定プロセスを重視するのに対して、後者は費用便益関係を重視する。この議論の危なさは、先に触れた非生産的外国人の排斥につながる可能性(繰り返すが、財政学/一般報償性を挟むとこの議論は”貢献主義”であっても成り立たないが、住民がそう勘違いする可能性は排除できない)もあるが、それ以上に将来の”外国人への特別な課税”へと道を開く可能性があるからだ。はっきり言って、これまでも、宿泊税や出入国税など、担税力を域外の人間に求める議論は存在していた。物税のスキームであろうが、人税のスキームであろうが、果たしてこのような応益負担望ましいものなのか、悍ましいものなのか、よく考える必要がある。

最後に共同体主義について確認しよう。共同体主義によれば、外国にルーツを持つ住民の”特別な”ニーズを認めるかどうかは、彼らを同胞として受け入れるかどうかに依存する。”特別”と表現する理由は、同胞として受け入れた瞬間から、それは特別ではなく”当然”であり、普遍的なニーズとして認定されるからだ。これは、民主主義とは必ずしも関係ないことにも留意が必要だ。もちろん、同胞として受け入れるには、一定の条件がある。言語、文化、そして本当は多くの場合は”宗教”であり、”血縁”であったりもする。言語や文化を受け入れることは、理論的には必ずしもエスニックルーツを消し去ることを意味しない。むしろ日本国内の少数民族のように、混じり合うからこそ強烈にルーツを保全しようとしたりもする。もっとも、この理論的可能性が、現実からはかけ離れているということも認めざるを得まい。むしろ私などは、エスニックルーツを大切にすることまで含めて、言語と文化の受け入れなのだと思うのだが。高麗神社を想起すれば、神道と中国発朝鮮経由の陰陽思想がよく融合しているように見えるのだが。これは余談だった。いずれにせよ、”観光客”は別としても、共に住み、共に働き、共に営むものたちを同胞とするのであれば、外国人のニーズは交付税で手当てするのが当たり前、ということになる。(もちろん、専門的には特定補助金やブロック補助金の方が、その分野にきちんと財源を利用されやすい、という議論はあるが、ここでは複雑になるので一旦無視する。)普遍的なニーズが、地域ごとに偏在している場合は、なおさら国の財源保障が重要になる、問いのが財政調整論の基本である。

さて、ここまでで概ね外国人住民をめぐる財政学上の論点のうち、私が重要だと考える部分について理解していただけただろうと思う。以下は私信である。
1)移民問題を考慮した、財政学の一般理論はどのようにリバイスされるべきか。端的に示してほしい。重要だ、というだけでは不足だろう。細かいことを言えば、共同体主義に立てば、(少なくとも現状では)外国人住民に一般報償性を適用する理由が分からない。貢献主義を、(個人的には悍ましいと思うが)租税論の応益負担的にリバイスするという可能性もあるはずだが、なぜそれが棄却されるのか説明していない。とすれば民主主義に立脚しているということになるのだろうが、そうなのかどうかも判然としない。でもこの問題は、社会問題から帰納的に財政理論を構築しようという立場からすればオマケのようなものだ。
2)最大の疑問は、国庫負担と一般財源化が求められる理由である。なぜ”共通部分”については交付税措置がなされていて、”特別な部分”についても国庫負担が正当化されるのか。これを説明しないまま、なし崩しに現実が進んでいって、それを是認するのはかなり危ないと考える。欧州の右派ポピュリズムの台頭を想起されたい。そしてさらに”一般財源化”が求められるのはなぜなのか?私の整理によれば、一般財源化が正当化されるのは、共同体主義だけである。同胞の”当然”のニーズを区別して扱う意味がないからだ。民主主義によって、あくまでも来訪者-マレビトとして外国人を扱った上で、それの特別扱いを是認するのであれば、それは温情主義でもあり、歓待主義でもあるのかもしれないけれど、いずれにせよ特定補助でよい。いやいやそうではなくて、自治が大切なんですというならば、地方税/ペイゴーで扱うべき問題である。補助金編/自治体編では、地方負担ではなく国庫負担を、特定補助よりは一般補助を、という流れで議論を閉じているように読める。とすればその根拠は何か?とにかく、上記のように理解している私からすると、理解できなかった。
3)これは今後への期待を込めてだが、理論編と実証編(補助金編/自治体編)との不整合が目に付く。少なくとも、現場での対処⇨特別交付金として財源保障⇨一般財源化の道筋を説明できる理論じゃなければならないと考えるが、その可能性が民主主義の中にかろうじて含まれているに過ぎない。含まれているだけならば、そのようなルートを辿ることもひとつだし、外国人排斥のルートを辿ることもひとつなのだ、という共通理解の元で、一本の筋を通さなければならないだろう。しかし、そうなっているようには読めない。実証編はキムリッカ的ではないのか?そうでないとしたらなんなのか?議論を通して読むと、理解が深まるどころか混乱をきたすのではないか?(どうせ多くの読者は、そんなこと気にしないでわかった気になっておしまいなのだろう。)

私は財政理論が気になる。現状を無限に肯定せず、批判的に予算編成を改変していくためには、論理的な立脚店が必要だから。その意味で、このような財政理論の中枢に殴り込みをかける議論は大歓迎である。願わくば、その再構築まできちんと示してほしい。批判経済学が、批判経済学の枠組みを自ら超えることができないのは、オルタナティブが欠如しているからである。数年後に、理論の前提から根本的に書き換えられた財政学のテキスト(”移民の財政学”でも、単に”財政学”でもよい)が出版されることを、期待したい。

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