新しい経済学と財政学

安田洋祐氏の議論に触発された。以前より、効率性と公平性の関係について研究していることは知っていて、注目はしていた。そこでの議論は、効率性を追い求めて=パイを最大化して、それを再分配するって本当に可能なんだろうか?ということだった。効率性と公平性のトレードオフについては、経済学の非常に基礎的なテーマである。一応、決着はついていて、厚生経済学の考え方では、任意のパレート最適な配分を達成することができるとされている。これを一般均衡の枠組みで考えれば、資源の初期配分をいじってやって、そのあとは市場に任せることで、一定程度の公平性と、効率性とを両立可能だとされている。これに対して、疑問符をつけたのが安田であって、現実の資本主義経済※ではそれが全くできていないのではないか?ということだった。だとすると、根本から間違っているのではないかと。

※安田の専門はゲーム理論・マーケットデザインであって、経済理論で言えばゴリゴリの新古典派のど真ん中。彼自身は、実証研究全盛期にあって、理論研究自体が非主流なんだと遜っている。それもわかる。経済理論を研究する人がほとんどいなくなってしまった。それはさておき、ゴリゴリの新古典派が資本主義経済というタームを使うこと自体に、面白みを感じてしまう。こちらの公演録などご参照あれ。私的所有・利潤動機・市場経済を資本主義の本質と見做すあたり、とても幅広い理解をしていることがわかる。(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/244479)この理解は私も近くて、財政をそのアナロジー、すなわち共同(公的)所有(強制)・非利潤動機・計画(予算)経済として理解できる。この非利潤動機ってのが、一番曲者なんだけどね。多様なものを、多様だと言っても意味がないから。

効率性の後に再分配は無理ではないか?分配が先立つのではないか?その問題に、マーケットデザインの側から回答を示したのが、このインタビュー記事(https://esse-sense.com/articles/20)で、研究が進んだのか、受信機の性能がアップしたのかわからないけれど、「市場均衡とは異なるマッチングがあるのではないか」という問題意識にぐぐっときた。「市場では、そこでの取引からこぼれ落ちる人がいる」という表現にもグッときた。そのままセーフティーネット論じゃないか。内容自体は読んでいただければいいけれど、記事の中の例を使えば、たくさん払える人(高所得者)が、生産に多くの費用がかかる売り手から買い、あまり払えない人(低所得者)に安く生産できる売り手から買ったらどうか、というマッチングを考えていると思う。例えば、(買い手、売り手)={(1、4)、(4、3)、(3、1)、(2、2)}のような。ただし、インタビューではそのように明示はしていない。というのは、市場経済では、そのマッチングは成り立たないからなんだろうと思う。金子勝は、市場からこぼれ落ちる個人をセーフティーネットで市場に戻していく、そこまで含めて市場という機構なのだと、論を展開したのだけれど、安田はそもそもこぼれ落ちないようなメカニズムデザインを考えている、といったところだろうか。

一般に言って、上記で考えたようなマッチングは効率性を満たさない。部分均衡での消費者余剰と利潤を最大化するということを効率性と考えると、明らかに過剰生産になっているからだ。ミクロ経済学ならば、死荷重損失が発生している状態ということになる。しかし安田は、効率性よりも優先する概念として公平性を捉えている。市場に参加できない個人がいるという状況を問題視している。それをゴリゴリに理論(数式)に落とし込んでいくというのが、今のテーマなのだろう。アイディア段階からどんどんアピールしていくのはいいことだよね、と思う。市場均衡では効率性は満たされるけれども市場からの脱落者を生むので、マーケットデザインで効率性は満たされなくても脱落者を産まないマッチングを実現できるメカニズムを考えよう。そういうことだろうと思う。だから、対戦略性・安定性だけが問題になってくるというのが、おそらく安田のアイディアだろう。

ところで、このような思考プロセスが、実は正統派財政学の議論にグッと接近しているのではないだろうか?というのが今回のメモの問題意識。どのような教科書にもかいていないので、正統派財政学のミクロ的基礎付けについて、簡単におさらいしておこう。(このノートでは以前書いたが、図がなかったので図を作ったよ。)

名称未設定のノート (1)-16

市場経済では、需給のバランスが価格を通じて行われる。この時に、経済的余剰が最大化している、というのが部分均衡でのパレート最適の表現となる。しかし、市場均衡よりも右側にも需要関数は存在している。つまり、その財を買いたいけれども何らかの理由で買えない/買わない人たちの存在が示唆されている。この財が、一般的な財(例えばアイフォン)で、その財を買わない理由が均衡価格のもとで相対的に他の財(例えばエクスペディア)の方が魅力があるからだ、ということであればそれは個人の選択の問題なのであって何の問題もない。しかし、この財がエッセンシャルなものだった場合(例えば飲まなければ死んでしまう薬)、果たしてその背景には他の財の方が良い、ということはあるのだろうか?ここでは、一応ない、ということにしておこう。ないのだとすれば、需要曲線が右下がりになっている理由は、所得分配によるものだということになる。つまり、多様な予算制約があって、市場均衡価格が予算制約を上回ってしまっている、ということである。医療分野や教育分野ではしばしば観察される事実だと思う。

だから、このようなエッセンシャルな消費に関して、財政学や社会政策では「必要(ニード)」として特別な財・サービスとして認識してきた。正統派財政学のセントラルドグマは「共同需要の共同充足」である。古典的には、共同需要とは共同体の危機、すなわち戦争を意味していた。福祉国家の成立以降は、この共同需要を必要と読み替えて、対人社会サービスの充足を国家の使命としてきた。「共同需要の共同充足」を部分均衡分析を用いてミクロ的に基礎づけるならば、下の図のようになる。つまり、価格がゼロのところの需要量を確保する、そのための生産を行う、ということである。もちろん、現実の政策の中には自己負担割合があったりするわけだが、それは上の図と下の図との間にあるヴァリアントにすぎない。本質は、私経済の上の図と公経済の下の図なのである。私は、ニーズにかかる財・サービスは無償が基本だと考えているが、なぜ自己負担を一旦設定しておいて、低所得者対策をするのかというのは、公平な負担とインセンティブの問題から説明することができるのだが、脱線がすぎるのでニーズがあればいずれ描こう。

さて、ここで安田の公平性をベースとしたマッチングの議論と、私の公経済のミクロ的基礎づけの議論とが何となく接近しているように見えないだろうか。(安田先生はですね、実は同級生なんです。彼は早生まれですので、生まれ年は私が1年早い。同世代から、学問的深みとスター性を兼ね備えたアカデミシャンが出るっていいよね。ストレートで東大行けば出会えたんだろうか、なんて思わなくもない。が、そしたら今の私はないので、やっぱりこのルートで良かったんだな。同級生ということならば、キャリアでは8年先輩ということになる。8年後にあの位になれることを目指そう。)共通点は、ある財の市場参加者をマックスにしよう=価格ゼロにして必要を満たそう、というところ。もちろん財政学では、一般報償性を基本とするので、”マッチング”という個別報償性の考え方は、全くマッチしない。しかし、どうも実現すべき社会像については、かなり同じことを考えているのではないかと思ったのね。

財政学だと、ここから予算論、そして財源論へと議論を展開させる。一般報償性を保ったまま。で、こちらはこちらで豊かな広がりがあるんだけど、最後にこれまでも書いてきたけれど、「共同需要の共同充足」に関するマクロ的基礎づけを、ごく簡単に行いたいと思う。マッチングベースにしても、公経済ベースにしても、全てのニーズを満たすならば高い限界費用に直面しているという問題がある。まぁ、現実的には規模の経済が働く場合も多く、供給曲線が右上りにならなかったりもするわけだけど。ほぼフラットでもいいんだけどね。問題は、供給曲線の下側の部分、つまり生産にかかる費用をどのように把握するのか、ということ。これは、少し場合分けしなければならない。一つは、そのほとんどが労働にかかる費用の場合(医療、介護、保育、教育など)であり、もう一つはそのほとんどが中間財である場合(小売、自動車、エネルギー、機械など)である。

前者の場合、費用のほとんどはSNA上では付加価値である。だから、費用がかさむことを直ちに問題とする必要はない。”直ちに”と限定をつけるのは、厳しい資源制約(労働力不足)に直面している場合は、問題になりうるからだ。マクロ経済学では失業と雇用の問題を、かなり中心的な課題として扱うが、多くの費用がかかるということは、多くの雇用を生み出すということを意味するのであり、神野直彦が構想したような地域再生のシナリオには、地域においていかに雇用を生み出すのかという視点が欠かせない。他方で後者の場合、産業の連関を考える必要がある。他の産業からの中間財の購入なのであれば、そちらの産業が刺激されることになるので、それはそれとして問題はない。問題となるのは、ある地域に限定した場合の他地域からの中間財の購入である。国全体においてはそれは輸入によって賄われる中間財のことであり、地域においては移入によって賄われる中間財を意味する。

費用の大部分が中間財で、それが他地域からの購入を意味するのであれば、地域のマクロ的な意味での購買力が問われることになる。ここが今の関心時。地域には基盤産業(他地域から貨幣を獲得でき、かつ多くの雇用を産んでいる=規模がでかい)と非基盤産業(他地域に貨幣を流出させ、かつ多くの雇用を産んでいる)によって成り立っている。雇用の少ない産業が、重要でないわけではないが、産業として重要なわけではない(=雇用源として期待できない)。そして、貨幣の流入と流出に着目すると、財政調整等の政府・政策を通じた資金循環が極めて重要になってくる。「条件によっては政府消費・投資が基盤産業になっている」というイメージについて初めて書いたのが2019年。今のところ、ほとんどどこに行っても、は?みたいな反応をもらうが、それがまたいい(苦笑 本論から、ズラーっとここまで繋がっている。そして、政府支出の質(単価)の議論にも。もうね。本にするしかないな(笑 いや、出していいよっては言われているんだけどね。能力に限界がありすぎる。

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