資本主義と内生的貨幣供給

マルクス経済学が分析対象とする資本主義。新古典派経済学が分析対象とする市場。全く方向性もアプローチも違うように見えて、共通の要素を多く抱えていることは知られている。現代的貨幣理論や内生的貨幣供給理論が広く知られるようになって、そのいずれもが激しく動揺しているようにみでる。もちろん、MMTの思想的な源流に、マルクスの影響があるかどうかで言えばあるんだろう。ケインズの直系という位置付けの方が正確ではあろうが。多くの意味でMMTはマルクス経済学の発展を否定するものだ。最近気になるのは次の2点である。一つには労働価値説、もうひとつには原始的蓄積説である。内生的貨幣供給になると、何がまずいのか、メモ的に記しておこうと思う。

内生的貨幣供給論とは、信用貨幣が貨幣需要に応じて創造されることを中心に据えた貨幣理論である。内生説やMMTのなにが注目されるべき理由かというと、金融緩和でマネーストックが増えない理由、中銀業務の理解(アコモデーション)、政府債務が民間貯蓄を借り尽くさない理由、国債残高が積み上がってもインフレにならない理由を鮮やかに説明するからである。金融・物価理論としては現在最も優れていると思われるが、広く経済学に取り入れられるまでにはまだ時間がかかるだろう。

さて、その辺りは文献が既に沢山あるので触れない。問題は、マルクス経済学でいうところの資本蓄積(労働価値の搾取)と原始的資本蓄積(収奪による最初の資本の蓄積)の見え方が変わってくる、ということだ。資本の運動は金属貨幣で表される。ドイツ語でカネのことをGeld(ゲルト)と呼ぶので、G(ゲー)と書くのが慣わしとなっている。このゲーはどこからきたのか?この銀でできた貨幣はどこからきたのか?それは、原始的蓄積なのだという。商業資本を考えれば、交易には地域と地域、国と国を超えた価値担保が必要で、それに銀を担わせた、ということである。これは国際決済なので、mmtが論じるsovereign currencyでないのは当然なのだが、では銀にはそこまでの価値(使用価値)があったのかというとそういうわけではなくて、結局制度的な規定なのだ、ということになろうかと思う。ポトシや日本の銀で、16世紀以降欧州は慢性的なインフレになったと考えられているが、金属貨幣においてすら貨幣数量説が成り立つのかどうか、慎重な再検討が必要であろう。

非合法の収奪が、かなりあったことは認められようが、そこから原蓄になったというのも、同様に怪しい。理論的には最初のゲルトが不要となるからだ。想像して欲しい。物々交換をしていた時から(いや、物々交換している時点で商業資本が設立しとるんやないかい!と思わなくもないが、蓄積が見えないのよね。羊の数とか。)、銀を介在させる瞬間を。何かものを持ってきて、その地域で別の財に取り替える。その時に、相手がちょうど欲しいものを持っていない可能性がある。わらしべ長者よろしく、物々交換を繰り返していけばよいが、そこには不確実性と取引費用がかかってくる。だから、それを媒介にするちょうど良いものが必要だった。それが、金銀財宝だった。共同体を渡り歩くならば、普遍性が欲しい。共同体の中だけで完結することが分かっていたならば、普遍性はいらなかった。理論的には。実際のところは分からんというか、観察できない可能性がある。そこに、国家が介在して兌換紙幣を発行することがあった。元の交鈔などがもっとも古い部類ではないか。ただ、mmtからすると兌換紙幣なんてものは存在しない。兌換はフィクションで良いからだ。貨幣価値を安定化させるものであれば、どうでもよかった。しばしば都合が悪くなれば、兌換を停止するような兌換紙幣なんて、創造の兌換紙幣でしかないはずだ。いずれにしてもここでの結論は、商人資本の設立の初めは、ゲルトではなくモノでしかあり得ないということ。そして、収奪も原蓄もからなずしも必要ではない。

で、実証レベルでは究極的にはよくわからないというか、かなりのばらつきがあるものの、地域内取引で貨幣が重要になってくるのは、いわゆる産業資本の成立以降だと考えられる。いわゆる資本の運動が、購入と売却ベースから、投資ベースに移ってきたからだ。つまり、モノスタートではなく、カネスタートになるわけだ。ここからが搾取論だけど、それは次の記事で。

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