水と油

最近は財政の話ばかり書いていますが、俄に盛り上がりを見せているので、仕方がない。テーマは移民の財政需要を満たすって話。その議論の過程で、ものすごいディスコミュニケーションを目の当たりにしたので、ここに記しておこうと思う。

そのディスコミュニケーションは、財政学と財政社会学の、もしくは神野直彦と井手英策とのディスコミュニケーションなんだよね。前者は、実は規範的な議論をしている。つまり、どうあるべきか、を示そうとする。だから、現状批判になる。神野直彦の言葉を使えば、現状に対する異議申し立て、なのであるのよ。他方で、その規範アプローチは、新古典派の経済学と相性が悪い。というのは、ヴァーグナーが示した規範は、明らかにパレート基準に矛盾するから。マルクスの規範とは矛盾しないので、マル経財政学が発展したんだろうけどね。だから、前者のアプローチを採用すると、経済学とのバトルに明け暮れることになる。歴史的手法を使いながら、規範を論じるのはしんどいのね。ある規範を批判することはできるんだけど(金子勝がそうしたように)、オルタナティブを示すことができないの。

他方で、後者のアプローチを採用するとそういう規範の問題から解放される。しかも、実証史学のアプローチや制度論のアプローチと相性が良くて、とにかく現実をよく説明できる。出来るんだけど、そこからはどうすれば良いのかという答えは出てこない。問題意識として、現状に対して批判的な視点を持っていても、現実は無限の制度変化のプロセスの中にあるため、せいぜいのところそれを見守る、という結論にしかならない。

それゆえに、ユニバーサリズムとか、ベーシックサービスとか、別の規範を持ち込むわけ。財政社会学からは、大きな政府の方が望ましいってのは出てこないんだけど、そこは北欧の社会指標とかを持ってきて、こっちの方がいいよね、ということにしておいて、ではそうするためには?と問いを立て直して、そこで財政社会学を活用するという構図になっている。実は、かなりアクロバティックなことをやっている。本人はもちろん自覚的だろうけれど、それを周りがどれほど理解できているのか、、、、怪しいということが、今回の議論でいよいよ明らかになった、ということなんですな。

さてさて、そもそも財政社会学は、財政学批判として唱えられたわけであって、当然と言えば当然なのですが、この先に救いはあるのか?ということなんです。つまり、マヨネーズやパイタンのように乳化させることができるのか?そもそも、議論している当事者たちが、水と油の違いを理解していないので、結論はほとんど偶然に任されますが、きちんと理解したら可能性はある?

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