230305

 少し春らしくなってきた。日が出ていると気持ちが良い。雲で日が隠れれてしまうと少し寒さが刺さって痛い。まだ暖かくなりきっていない春の日に、晴れているというのに太陽だけ雲に隠れてしまうのは憎いと枕草子に書き足して欲しい。
 今日は13時ごろまで寝たり起きたりを繰り返していた。ようやく起き上がって米を炊いて味噌汁をつくっているあいだ、掃除機をかけて、本棚の埃をはらった。そろそろ春に向けて準備するかと思い、電気ストーブを段ボールに入れて押し入れにしまい、冬物のニットも洗うことにした。トイレも掃除する。掃除をすると日々の流れにいったん区切りをつけるような感じがする。一息つくことができる。
 春キャベツの味噌汁と納豆ごはんをたべ、昨日残しておいた伊予柑の半分を食べる。母親が伊予柑付きで、小さな頃よく実家で食べていたものだ。酸味が体を目覚めさせる。
 今日は鴨川デルタまで歩くことにした。陽がさしていて良い日だ。春物のコートか冬のコートか迷ったあげく結局冬のコートを着ていった。ポケットにはニーチェの『善悪の彼岸・道徳の起源』とカンディンスキーの『点と線から面へ』を入れていった。
 『点と線から面へ』(宮島久雄訳、ちくま学芸文庫、2017年)について。初版は1928年である。
 カンディンスキーにおいては内的/外的の区別が重要である。カンディンスキーいわく、すべての現象は内的および外的に体験できる。
 外的な体験の例として次のような描写がある。

窓ガラス越しに道路を見るとき、騒音は遮られて、事物の動きはパントマイムふうに、透明だが、固定した堅いガラス板によって隔離され、まるで「あの世」で鼓動する存在物のように見える。

10頁

 一方、内的な体験の例以下のようなものである。

次にはドアが開き、人は隔離から脱出し、この存在物にのめりこみ、積極的にそのなかに入り込み、その鼓動を感覚全体で体得する。騒音は高さとテンポを絶えず変転させながら人間を呑み込み、つむじ風のように吹き上がったかと思うと、急に弱まって落下する。この運動が人間を包み込み——水平や垂直の線の遊びは運動に応じてさまざまな方向に傾いて行き、盛り上がったり、分散したりする絵画の点の動きはときには高く、ときには低く、音を鳴り響かせる。

同上

 どうやら、外的/内的を分かつものに「響き」があるようだ。前者では、道路はガラスに隔てられ、あたかもあの世にあるようにその響きは感覚されない。一方、後者のような内的な体験では響きが感覚全体で体得される。
 ここで気になったことをひとつ。「また作品のなかにのめり込み、積極的に入り込み、その鼓動を感覚全体で体得するような可能性もある」(11頁)述べられているが、作品のなかにのめりこむこと、積極的に入り込むことと響きを感覚全体で体得することの関係はいかなるものなのだろうか。おそらく、同じ事象を二面から描写したものであるように思われるが、作品のなかにのめりこんでいるにも関わらず、響きを全く体感できないということはあるのだろうか。また、響きを体感しているにも関わらず、まったく作品のなかにはのめりこんでいないということはありえるのだろうか。
 話を戻す。この論文においては。この内的な体験を芸術作品においていかに実現するか、そこに主眼が置かれている。本書を通して絵画における基本要素である点と線の分析がなされるのだが、カンディンンスキーはこの分析について「作品を内的に鼓動させるための橋わたしとなる」(11頁)と述べている。
 ところで要素とはなにか。カンディンスキーによれば、要素にも外的なものと内的なものがある。点や線といった形態が外的な要素であるのに対して、内的には「そこに生きている内的な緊張が要素」(32頁)である。そのように述べて直ぐに緊張は力と等号で結ばれる。
 どうやら、響きは力と強く連関し、またそれらは生と強い連関を構成している。外的/内的の区別には、静/響、死/生、静/動(力)が対応する。
 具象芸術と抽象芸術の違いについては、前者が「要素「そのもの」における響きは隠蔽され、抑制される」と述べられており、後者については「隠蔽されない、豊かな響きが現れる」とされている。また、その芸術の解体に対する当時の批判に対して、「暴き出された要素とそれが持つ本源的な力をなにも知らずに過小評価している」と応答する。
 カンディンスキーの狙いは、要素を分析することで、そこにある力、響きを取り出し、作品に生を与えることにあると言えるだろう。
 「本源的な力」という表現に注目したい。カンディンスキーにおいて、力こそが本源的である。そしてそれは響きとして感覚される。何やらニーチェと同じ匂いがしないだろうか。
 これを書いていて私はバタイユを連想した。特にエロティシズムについて。カンディンスキーが「ガラス」と形容したような、一個の存在と他の存在の間にある深淵、不連続性。その不連続性を乗り越え、連続性へと向かっていこうとするエロティシズムの運動。存在の連続性としての聖なるもの。それらを見てとることができないだろうか。
 この連想から久々にバタイユの『エロティシズム』をひらいてみて目に止まった箇所を書き抜いておく。

猥褻さとは、自己を所有するのに適した肉体の状態、持続しえて確固としている個体性を所有するのに適した肉体の状態をかきみだす混乱のことなのである。

ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』、酒井健 訳、ちくま学芸文庫、2004年、29頁

 23. 03. 03 に書いていた日記について。
 胡蝶の夢について考えていた。「私」は現実には蝶であるときについて、私は「「楽しく飛びまわる」というのは現実なのだろうか」と書いていたが、結局のところ、それを夢の中で考えている以上それは夢でしかありえないのだとわかった。また、「それが夢である」といえるのは、そこから覚めてしまって初めていえることであるのだと気づいた。もし夢の中で、「これは夢なのだ」と考えたとしても、考え自体夢なのである(そして「その考え自体夢である」というのは目覚めてからしか言えない)。
 同様に「私」が現実には蝶であったとしても、夢の中で荘周である「私」が「それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか」と問うとき、その問い自体が夢であるのだが、目覚めるまでは「その問い自体が夢である」ということも言えず、それが夢だとわかることはありえない。
 上のような「「私」は現実には蝶である」ということも夢であったらどうなるのだろう。つまり夢が入れ子になっている場合。「夢の中の夢の中の夢の中の…」というように、この入子を無数に重ねることができる。外枠が現実ということになるが、しかしそれが現実だとどのようにしてわかるのだろうか。
 ここで連想するのが『インセプション』(クリストファー・ノーラン、2010年)という映画だ。記憶が曖昧だが、確か主人公は入れ子場の夢を次々移動していた。映画の中では現実と夢を峻別するためにコマが使われていた。入れ子状の任意の夢の中ではそのコマは回り続けるが、最後の外枠である現実に達したときにはコマは途中で回転を止めてしまうという仕組みだ。
 しかし、コマが止まってしまうという夢をみることも(現実に見せかけた夢)を見ることも可能ではないか。その場合、夢の内部のものが、これは実は夢だと確実に示すことはできるのだろうか。
 ところでふと思ったが、胡蝶の夢ではこの入子状の夢構造における夢か現実かわからないという問題とは異なることが問題となっているのではないか。
 入子状の夢構造では、それが未だ夢枠の内部であっても、目覚めると目覚めたときの枠が現実で、目覚める前の枠が夢であるということになる。つまり、目覚めるということがいかなることかは自明であり、それに基づいて「それは夢であった」と言える。
 一方、胡蝶の夢では、目覚めるということが自明ではなくなってしまっているのではないか。つまり、これは目覚めたのではなく夢に入ったのか、夢に入ったのではなく、目覚めたのではないかと、懐疑が付き纏っている状態。
 追記。夢の中で、何かしら現実にそうであることが現れたとしてもそれは夢であること、可能世界を考えても、それはこの現実世界の中で考えられているということ、〈私〉の死を思考しても、どこかに〈私〉を持ち込んでしまい、〈私〉が生きていること。何かここに共通するものがないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?