220814

 昨日は月に2回の書道教室であった。その日の生徒は僕だけであったので、先生のお宅の居間で大きな紙に書くことになった。僕はかれこれ2年くらい褚遂良という人物の書を臨書している。

 お手本から一行あたり七文字、それを二行書く。最近は以前にくらべて少しは筆が思ったように動いてくれるようになったと感じる。書き上がったものを先生に見せると、褚遂良の字のイメージを捉えられていないと言われた。そのとき僕ははっとする。そうか、字にイメージがあるのかと。

 これまでずっと、いかにお手本の字の画の比率や、それぞれの線のバランス、つまり形をみて、その形をいかに再現するかを試みていた。次の段階として筆の動き、その連続性を捉えることに挑戦しているところであった。晴天の霹靂。字のイメージを捉えてそれを書くのかと。

 大学の恩師が、翻訳をするとはテクストの生命感を読者に伝えることであると述べていた。このような翻訳は字のイメージを捉えてそれを書くという営みと似たものであるように思える。掴みがたい、掴もうとすれば手をするりと抜け落ちるイメージの領域。それは僕にとって未知の領域、目を向けていなかったところかもしれない。意味や形の領域への安住があった。

 あるとき京都の街中にあるコンクリート打ちっぱなしの喫茶店でドゥルーズとスピノザの研究者と話していたときに、思考のイメージの話を聞いた。ライプニッツの思考のイメージが襞であると言っていたのを覚えている。僕は読んでいないから憶測でしか語れないが、ドゥルーズは意味や形ではなく、書道の先生のように哲学のテクストのイメージを相手にしていたのだろうか。そうとなると彼はずいぶんと芸術家的だと思う。

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