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砂がわずかな湿気を含んでいることの意味は。ケムリ研究室『砂の女』


もしかしたらご当人達(ケラリーノ・サンドロヴィッチ。以下、KERAと緒川たまき)にとっては不本意かもしれないが、思い切って書くと、これがケムリ研究室の本当のスタートではないか。

前作『ベイジルタウンの女神』が良い作品だったことに何の異論もないけれど、“大人のおとぎ話”と言うべきファンタジックな展開、苦味が混じるもハートウォーミングな後味、緒川たまきのチャームと演技力に支えられた/それを活かすべくつくられた“主人公の性善説に基づくコメディ”である点などで『キネマと恋人』(世田谷パブリックシアター+KERA・MAP)の延長線上にあった印象は否めない。
ところが『砂の女』は、大好評を博していたその路線から大きくハンドルを切った。もともとKERAには、過去に手を出していないジャンルの作品をつくるのが創作のモチベーションという特性はあったが、そうした新しさへのこだわりとは別次元の、思い切った過去の引き剥しがこの作品にはある。こう書くと主語はKERAだが、結果的にそうなった人も含めて関わったほとんどのクリエイターが、これまでのイメージ、やり方から離れて、この作品に臨んだと感じる。つまり、個人名を消して『砂の女』という物語に内在化している。
それはちっとも特別なことではない、俳優もプランナーも、優れたつくり手は皆、自分より作品を優先して全体に奉仕している、という意見は百も承知しているが、私が感じたのはその先。経験、才能、個性を備えた優秀なクリエイターが機能に徹し、さらに研ぎ澄まされた機能になる具体例だ。

たとえば映像の上田大樹は、20年を超すKERA作品のパートナーで、彼が手掛ける緻密でスタイリッシュなタイトルバックを楽しみにしているファンは多い。また、時間や登場人物の意識が歪んだ様子を一瞬で感じさせる効果も得意で、KERAワールドの不可思議さをサポートし、そのスキルアップは、舞台映像作家の第一人者としての上田の地位を確立することにもなった。それなのに、今作に使われている映像は砂の表現のみ。普通の感覚では、せっかく上田にオファーしてつくってもらうのが砂の映像というのは、宝の持ち腐れにも感じられる。しかし今回、上田と、もうひとりの映像担当・大鹿奈穂は、この物語の真の主役が砂だとはっきり伝わってくる映像を、大胆な引き算でつくりだした。本作には実際の砂はほとんど出て来ず、舞台中央に建てられた粗末な家を取り囲むグレーの布が砂を表しているのだが、雪崩のように崩れたり、さらさらと落ちたり、風に吹かれたりと、表情を持つ時、一面の布に上田と大鹿による砂の映像が映し出される。手描きのような不揃いの小さな円がみっしりと並んだそれは、スタイリッシュさから遠く離れた粗雑なエネルギーを放ち、そのアナログ感が砂を命あるものに見せる。
引き算と言えば、振付の小野寺修二の仕事もそうで、KERAとの仕事を含むこれまでの振付は、状況の変化を複数の人間の連鎖する動きで表現するのが主だったが、今回は、砂の穴底にいる女と男、ふたりの直接的な距離感というミニマムな部分に多くのエネルギーが注がれている。
そして水越佳一の音響。水越もまたKERAとの付き合いの長いプランナーだが、いつもの“聴覚からリアルとファンタジーの境界線を曖昧にする音響”ではなく、砂がない舞台で観客に砂の存在を信じ込ませるリアリティを一気に請け負う。夜、女が砂かきをする時の、シャベルに片足をかけて体重を乗せる、最初は「サクッ」という音が少し沈んで「ザクッ」となるその一連を、女を演じる緒川の動きと完全に同期させて客席に届ける繊細な仕事ぶり。その瞬間から魔法のように、舞台は四方を砂に囲まれた穴底になった。砂かきのシーンは何度も出てきて、男を演じる仲村トオルも砂をかくのだが、毎回見事に一致するので、録音ではなくオペレーターが俳優の動きを観ながらその場でSEを出しているのではないかと思っているのだが、さてどうだろう。

これら、一流のつくり手が得意技を封じ、基本に返るストイックさと、凄腕でなければ実現しない高いクリエイティビティを発揮している理由は、この舞台を観た多くの人が感じていると思うのだが、緒川たまきのストイックさとクリエイティビティだ。
服を脱ぐ脱がないというレベルの話ではない。『砂の女』映画版を念頭に置いていると、岸田今日子のキャラクターもあって女を妖婦と捉えがちだが、原作の女は、貧しくて不自由で理不尽だらけの部落が自分にふさわしいと思っている小さな世界の住人であり、「東京の女の人はきれいなんでしょう?」と都会にコンプレックスを抱く垢抜けない女性であって、手ぐすね引いて男が掛かるのを待つ蟻地獄の主のような存在ではない。芯も輪郭も捉えがたい人物ではあるけれど、緒川の本来の個性とは正反対と言っていいキャラクターだ。この舞台版『砂の女』は注意深く、小説とも映画とも違う『砂の女』をつくり上げているけれど、女の核の部分は、男が家を壊そうとした時に言葉遣いが「やめろ、これは私の家だ」と乱暴になる非・妖婦──土地と自分が堅く結び付いていて、男よりも家が大事──という小説版の、緒川がより高く跳ばなくてはいけないハードルを選び、それをクリアしていることが大きなポイントだろう。
男を演じる仲村も、一体何度着替えるんだと驚く八面六臂のオクイシュージ、武谷公雄、吉増裕士、廣川三憲も、緒川と、またそれぞれがお互いに、非常に緻密な周波数のやり取りをしている。男の、自分のプライドの空虚さに気付かない鈍感さが部落との親和性に繋がっていく流れ、妻に持たなかった愛情を女に抱いていく様子を、仲村の朴訥さは生々しく見せてとても良い。前述の「小説とも映画とも違う『砂の女』」の土台を受け持っているのはオクイらで、別役実風スケッチを安部公房作品に入れ込むKERAの遊び心、男の不在が彼のいたコミュニティで何の影響も及ぼさないというオリジナルのシーンも、演技巧者の4人がいてこそ瞬時に成立している。

かたや本作にはまったく新しい取り組みもあって、それが音楽・演奏の上野洋子の起用だ。KERAと鈴木慶一のユニット、No Lie-Senseのレコーディングに参加したことがきっかけでKERAが声をかけたそうだが、打楽器、キーボード、声などを駆使して、時にエスニックな民族音楽、時に即興のようなボイスパフォーマンスで物語と伴走する。水越の音響同様、これもまた俳優の動きを注意深く観ながらで見事に同期する。上野は物語全体を見下ろす場所にずっといるのだが、私は彼女を、男をこの場所に引き寄せたニワハンミョウではないかと思った。

最後に、舞台版を観て初めて気付いたこと。『砂の女』の砂には、足や手をかけるそばから崩れてしまう乾いた砂と、わずかに湿度を含んだ砂が存在して、どうやら後者に大きな意味がありそうだ。夜が運んでくる霧を吸った砂は、乾いた砂より扱いやすいため、部落の人々は日々、明け方まで砂かきをする。本来は休息すべき時間を費やす労働、その動機は、家が埋まったらご近所に迷惑がかかるという自分の幸せとは別のもの。そのために、最低最悪より少しだけマシな労働をする。その状況は、抜本的な解決から目をそらして「これは最低最悪ではない」と自分を信じ込ませてゆっくり破滅を待つ今の日本と重ねられる。
はたまた、そうした社会的な批評性とは別に、男が女の体への愛着を深めていく過程に、やはりわずかに湿度を含んだ砂が存在しているのは、小説を読んだだけでは気付けなかった。おそらく他にも、安部公房が砂の湿気に込めた意味はありそうだ。

それにしても2作目でこんな傑作をつくってしまって、ケムリ研究室は次回作以降、一体どうするのだろう。かなり心配。

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