『チック』再演──知らないことの多さに震えながら、少しだけ前へ進む。

 良い作品の再演ほど「初演であんなに感動したのに、本当は何もわかっていなかった」と反省する率が高い。
 『チック』がまさにそうで、2年前、興奮してツイートを連投したけど、改めて観て痛感した。私は何もわかっていなかった。

 『チック』は、明日から夏休みという日、友達のいない14歳のマイクが、ほとんど話したことのない転校生のチックから「ちょっと借りてきただけで、そのあたりをぐるっと回ったら返すから」という車でドライブしないかと誘われ、案の定、それだけで終わらず遠出することになり、途中でイザという少女をはじめ、さまざまな人と出会って「人生、そんなに悪くない」と感じる1週間の旅とその後を描いている。
 もともとはドイツの児童文学で、ヴェルフガング・ヘルンドルフによる大ベストセラー小説をロベルト・コアルが舞台用に執筆し、日本版は17年、小山ゆうなによる翻訳と演出で上演された。原作のトーンが知的で明るいから“とても優れた、14歳のひと夏の成長物語”と考えがち(そしてそれでも問題ない)なのだけれど、再演で気付かされたのは、この物語のスタート以前の前提──マイク、チック、イザが淡々と受け容れている境遇が、それぞれに異なる地獄だということだ。
 単純に書いてしまうと、マイクはDVとネグレクト、チックはロシアからの移民で家族は兄だけ、イザは何らかの精神的な疾患があり、両親には頼れない(同じ作者による小説で、今回2ステージだけ実施されたリーディング『イザ ぼくの運命のひと』で彼女が病院を脱走した過去が明らかになったが、『チック』だけ観てもおおよその予想はつく)なのだが、彼らが見てきた風景がどれだけきついものだったかが、同じ俳優の同じせりふで、風景としてこちらに受け渡された。
 たとえば。マイクとチックが旅先で出会うのは基本的に素晴らしい人たちだが、かつて兵士としてソ連と戦い、今もロシア人を「イワン」と呼んで憎悪する老人の話を聞いている時の、チックの表情。興奮した老人に銃を向けられながらも、老人に手を差し出す心境。おそらくたくさんある反論の言葉、恐怖、理不尽さをすべて飲み込んだ寂しさや、そうした傷付けられ方はチックの人生には初めてではないことが、柄本時生のたたずまいで広がった。
 あるいは。めったに人に反論しないマイクが、ゴミ捨場でひとりで暮らしているイザを「頭がおかしい、臭い」と嫌うチックに、「僕らも同じにおいだよ」と諌める言葉の深さ。その「におい」は物理的な意味だけではないと、篠山輝信の言い方から伝わってきた。
 これらは当然、初演から2年を経て、俳優と演出家の理解が深まった結果で、14歳の役を何歳まで演じていいのかという問題は、この理解の前には何の意味も持たない。私が観た日は柄本が何度かせりふを噛んでいたのだが、それもまた、役の人物が俳優の心身に充分に満ちている時、決して大きな瑕疵にはならない。もちろん篠山と柄本だけでなく、イザ役の土井ケイト、父親役の大鷹明良の軽やかで丁寧な演技もまた、さりげなくて深い進化を遂げている。
 それと矛盾するようだけれど、今回初参加だった那須佐代子が、息子を愛しながらもお酒に頼り、夫の暴力から息子を救えない圧倒的に無力な母親を好演したおかげで、ラストのプールのシーンに新たな意味を感じた。その前から、舞台上にあってシーンによって動かされる四角い床、天井に吊るされた四角いボードが、登場人物たちの、蓋をされたプールの中にいるような息苦しさを現しているのではないかと感じていたのだが、ラスト、酔っ払った母親が電気スタンドやソファを投げ込んだプールにダイブして、水底から上空の明るい光を見た時に、マイクは未来を自分の手でつかむ決意をし、子供時代と決別したのだと思う。その時、マイクは“愛し、頼ってきた”母親を、“愛し、赦した”ようにも思った。

 また、自動車で旅するマイクとチック(と、途中にイザ)は、度々、急な大雨や嵐に遭遇し、それらが去ったあとの太陽、森や野生のブルーベリーといった自然を満喫するのも重要だ。これは初演の時から気になっていたのだが、ベルリンという都会から離れていくマイクとチックは、自分のペースで暮らす風変わりな、つまり辺境の人々と出会うだけでなく、辺境そのものの洗礼を受け、身体を慣らしていく意味があるのだと思う。人が治癒される時、人とのつながりも大切だけど、自然と触れ合うことも有効なのだ。

 『チック』がドイツでは大ベストセラーと書いたが、舞台もまた、毎年のように上演され、多くの子供たちが観ているのだという。移民やLGBTや親との関係、世の中にはさまざまな人がいるということを織り込んだこの舞台を観て大人になる人が増え続けているのは、なんとも素晴らしい。

 実は私は、チックと老人のシーンを観ながら、突然、ロヒンギャの人々について報道していたニュースを思い出した。そこまで射程の広い話だったのに、初演では、ロシアをルーツに持つ移民であるチックのプロフィールを深く考えなかった自分に失望した。
 演劇を観て、遠い国の悲劇を知った気になるのは、豊かな者の勝手なナルシシズムかもしれない。けれども、知らなかったことを少し知り、それによって知らないことの多さを自覚し、震え、もっと知らなければと思えるのは、私にとって今のところ演劇が最も有効なメディアで、鈍感な感性を少しでも前に進めなければと考えさせてくれるのだ。


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