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新ロイヤル大衆舎『王将』再演を深めた、水性の俳優・福本雄樹のこと

人間の性格の傾向を、火や土や風などの属性で分ける占いがあるけれど、ひとつのエレメントが外見にはっきりと出ている人を観た。

新ロイヤル大衆舎『王将』の第二部、KAAT(神奈川芸術劇場)1階のアトリウムに設えられた特設ステージに何人もの登場人物が集まるシーンで、ひとり、完全に異質な光を放っている人物がいて目が止まった。水の人がいる、と思った。白い皮膚がかろうじてせき止めてはいるけれど、今にも溢れそうな大量の水がその内側で揺れていて、輪郭を光らせている。福本雄樹だった。
福本は唐組の劇団員で、数年前からヒロインの相手役、つまり男性の中では一番手に来る役を演じるようになっていて、その都度、「良い素質がありそうだから劇団を辞めないといいな」とか「ずいぶん力が付いてきたな」と記憶してはいたけれど、なにしろ唐十郎の作品は、大量の水を使ったり、物語に池が出てきたり、テント公演がデフォルトなのに高確率で上演日に雨が降ったりと、物理的にもイメージにも水にあふれているので、その親和性から、福本の水性ぶりがここまで目立つことはなかった。
それが『王将』の、火のような熱さや乾いた泥のざらつきを携えた俳優陣の中で、図らずも本来の個性が際立つことになったのだ。体内の細胞ひとつひとつの水分含有量が一般の人より多く、激しく動くと涙という形で目からこぼれてしまう。それを必死でこらえているからいつも悲しそうで、その結果、常に周囲から浮いてしまう孤独の運命を背負う──。テントから出た福本はそんなふうに見えた。
そしてこの疎外感が『王将』では功を奏した。
初演で森川役をやったのは別の俳優で、その人の役の解釈でも話は成立しており、特に不満はなかったけれど、福本による再演で、初演では気配さえなかった(少なくとも私はまったく気付かなかった)ストーリーラインが生まれ、作品が膨らんだ。

『王将』は明治から昭和にかけて活躍した在野の天才棋士、坂田三吉の生涯をもとに北條秀司が新国劇のために書いた戯曲で、何度か映画化もされている。新ロイヤル大衆舎は’17年、長塚圭史が構成台本と演出を手掛け、下北沢の楽園で三部作を一挙に上演した。KAATでの上演はこの再演。福本が演じたのは、三吉がすでに棋士としての全盛期を過ぎ、兄弟子達が次々と去ってもなお、三吉の棋風を尊敬して門下に残る寡黙な若い弟子・森川。努力しても将棋は万年初段、性格も不器用で、三吉の身の回りを献身的に世話するも、瞬間的に気分が変わる三吉に振り回される日々を送っている。しかしやがて頭角を現して、長くトップの座に就く名人と対局、大方の予想を覆して勝利する。三吉は、自分が思いつかなかった手を繰り出した弟子の才覚に感心し、結果を喜ぶが、森川本人を目の前にすると嫉妬と悔しさにさいなまされ、冷たい言葉を浴びせる。

第二部から登場する森川がどういう人物か、その紹介に次のようなシーンが用意されている。三吉の後妻から料理を言いつけられた簡単な料理番ができない。列車事故で足止めを食らって駅舎でひと悶着起こす三吉に、席に置いてきた荷物のことで気が利かないと怒鳴られる。
初演ではこれらが、どうにも間が悪い森川のチャームを伝える役割を果たした。特に列車のシーンでは笑いが起きたと記憶している。森川は、実は三吉の次女・君子を長く思っているのだが、端から見れば明らかなその気持ちをなかなか伝えられない奥手ぶりが、彼の天然ぽさと相まって微笑ましかった。
だが福本が演じた再演では、森川と接する人物、特に三吉の影の部分が引き出された。三吉に怒鳴られて混乱の駅舎と列車を2度も往復するシーンは、泣きそうな顔で取って返す森川によって、初演にはなかった三吉の理不尽な性格が浮かび上がった。もともと目の前のことに夢中になる視野狭窄的な性格が、長い不遇と老境への移行のためか、自分のわがままに気付けない悲しい老人へと変容していたことが示される。他のシーンでも三吉は、兄弟子の松島と比較して忌々しそうに叱る。誰が悪いわけでもないのに森川に当たる。他の誰にもそんな態度は取らないのに──。それらすべてに森川は必死に頭を下げ、悲しみをこらえて走り回る。『王将』の坂田三吉と言えば、名誉でもお金でもなくひたすら将棋への情熱を貫いた純粋な人物と捉えられがちで、初演ではそのイメージが打ち出されていたが、再演は森川への冷徹な態度が、無邪気なだけではない三吉をあぶり出した。

天才は望むと望まないとに関わらず、周囲に傷付く人を量産してしまう。それを森川への仕打ちを通して北條は書いたのかもしれない。あるいは、三吉は誰からも愛される無邪気な将棋馬鹿ではなく、大きな欠点を抱えた普通の人間だったと解釈することもできる。前者だとすれば、溺愛した君子と森川が距離を縮めていく様子にまったく興味を示さない晩年の三吉に、自分に尽くし、努力して出世した弟子と親しく交わることのないまま生涯を終える天才の超俗ぶりを感じる。後者だとしたら、三吉が自分でも意識しないレベルで森川を軽んじていたからこそ、森川が名人戦に勝利した時に心無い言葉が口をついて出たのではないかと理解できる。
三吉は、森川に労いの言葉をかけられなかった自分を後悔しつつも「名人に勝ったのが自分でないのが悔しい」と男泣きし、いくつになっても、弱くなっても、現役の棋士の感覚でしか生きられない自分の業の苦しさを改めて自覚する。ここが『王将』のクライマックスなのだが、勝負師の業はひとりでは成り立たない。ここにあったのは、ライバル達との関係にある業ではなく、弟子さえもライバル視する深い深い業だ。消えたように見えてくすぶり続けるその炎を際立たせたのは、福本の水分だった。

福本雄樹の今後のスケジュールを知らないけれど、唐組で唐十郎の水の世界を体現しつつ、時々こうして陸に上がって、稀有な個性を発揮してくれる機会があるといいなと思う。


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