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ぐうたららばい『海底歩行者』 ──夫婦を海底に引き付けたものは。

10月18日、こまばアゴラ劇場で、ぐうたららばい『海底歩行者』を観た。深い深い暗さとその肯定が埋め込まれた作品で、おそらくこれこそ、作・演出の糸井幸之介が本来抱えているであろう嗜好と志向だと思う。

ぐうたららばいは、劇団FUKAI PRODUCE羽衣の座付き作・演出家・作詞作曲家であり、近年は木ノ下歌舞伎の『心中天の網島』の演出でも注目を集めた糸井が、「羽衣とはちょっと違う、ビターな音楽劇をやりたい」(当日パンフレットの挨拶文より)と立ち上げた個人ユニットで、『海底歩行者』はその第2作目。と言っても第1作から約7年もの時間が空いているので、今作が初めてのぐうたららばいという観客も多かったと思う。また、これだけ時間が空いていることから、ぐうたららばいは糸井のアイデアやモチベーションが自然に満ちた時に上演されるという一面があるのかもしれない。

今作は男女のふたり芝居で、関係は夫婦、夫の楓太郎を羽衣所属のキムユス、妻の咲子をフリーランスの伊東沙保、彼らの間に生まれた息子の柚(ゆう)をふたりが交互に演じる。大学時代に同じサークルに所属していた楓太郎と咲子は、卒業後に偶然再会して付き合い始め、子供ができたのを機に結婚したらしい(はっきりそう示すせりふはないが、新婚旅行先で咲子のおなかに赤ちゃんがいることが語られる)。夫は小説家を目指しているもののフリーライターを生業にし、妻は出産と育児のため、仕事はしていない。
物語は、ふたりの子供の3歳の誕生日の夜から始まり、出産を終えた咲子が生まれたばかりの柚を連れて病院から自宅に戻った日、柚の1歳と2歳の誕生日、それぞれの間にあった子供の成長と、それに伴うたくさんの喜びと現実的な犠牲という、ありきたりだが、だからこそ多くの人が具体的に想像できるスケッチがディテール豊かに綴られていく。

私は、ストーリーに関する前情報にはまったく触れずに観ていたが、ステレオタイプな幸福が純度の高い喜びと共に展開するほど不安が募った。ひとつひとつのエピソードが不幸フラグなのだろうという予感が湧いたからだ。
果たして彼らの子供は2歳を迎えて間もなく、初めての家族旅行で亡くなる。柚の寝顔を見ながら「2歳ぐらいが一番可愛いって言うね」「だって天使だもん」と夫婦がしみじみと会話をしてからそう時間が経っていない日、ほんの少しふたりが目を離した隙に、とても溺れるとは思えない浅瀬で溺死する。オープニングの3歳の誕生パーティーは、子供の死を受け入れられない妻と、そんな彼女を理解する夫が、主役を欠いたまま開いたものだった。

ただ、一家の生活には早いタイミングから不穏な風が吹き込んでもいた。楓太郎の帰宅が遅くなる日があり、時には朝方になった。とは言え子煩悩で妻にも優しく、ひとりで子守りをしていて騒ぐ息子に怒鳴ってしまった時は、慌てて子供に謝って反省し、寝る前には自分で考えた物語を楽しそうに聞かせ、咲子の復職にも理解と労いを示す楓太郎の態度に取り繕ったところはなく、常に自然だ。「片付けは俺がやるよ」と食器洗いを引き受けるのも決して特別なことではない。柚の2歳の誕生日の晩、咲子がふと、「ふうくん、まだ私のこと好き?」と尋ねるが、水道の音で楓太郎には届かず、「え?」「ううん、何でもない」とさざなみが凪になったあと、夫が「近々、3人で旅行に行かない?」と提案が飛び出す。新婚旅行に行った場所に今度は3人で行こうという言葉に妻は喜んで賛成し、その旅先で、息子は亡くなる。
咲子はそこから1年以上の七転八倒を経験し、楓太郎はおそらく、この地獄は夫婦でなければ切り抜けられないと覚悟していて、彼女を否定せずに寄り添う。そうやって苦しい日をギリギリで過ごしていたある日、咲子は穏やかに離婚を切り出す。その時に彼女は初めて「好きな人がいるんでしょ? わかっていたよ」と楓太郎に言う。

このあとの咲子のせりふから始まる会話は、ありふれた短い言葉の組み合わせながら、別れる夫婦のやり取りとしては実に秀逸であり、ふたりの人間の行き着いた関係性として、また、言葉そのものとして、震えるほど美しかった。糸井の豊かな才能を改めて感じるこのシーンは、今作のクライマックスと言っていい。
けれどもこの作品は、最愛の子供を失う悲しみと苦しみ、深手を負いながらもそこから生還して、別々に生きる道を選んだ夫婦というきれいな話ではないはずだ。

「ふうくん、まだ私のこと好き?」という妻の質問を、実は夫は聞き取っていたら? 「近々、3人で旅行に行かない?」という提案には浮気の罪滅ぼしの意識が含まれていたら? そうやって出かけた旅行先で子供が事故死したらとしたら? もし妻が早い段階で夫の不倫が問いただしていたら事故は避けられたのではないか? そして夫婦はともにそう気付いてながら、ずっとそのことを避けているとしたら?
これらの仮定がすべてYESだった時、この物語の子供の死の意味は異なるものとなり、夫婦の関係性もまた、ただ美しいものではなくなる。でも糸井が今作で描こうとしたのはまさにそれで、人間の罪のひとつの姿、ずるさの保留ではないか。もっと言えば、罪と幸福は共存するということだ。幸福は悪とは相性が悪いが、罪は幸福の中に存在できる。罪を犯しながら幸福を求めてしまうことはずるいけれど、言わずに済むなら言わない、そのままでいいならそのままにしておくというずるさこそ人間の業で、業の肯定は糸井が羽衣でもずっと追求してきたことだ。
楓太郎と咲子が、タイトルの『海底歩行者』だとして、海の底に彼らを引き付けていた重力は、悲しみではなく罪の重さだ。息ができないはずの海底に、歩けるくらい慣れてしまうこと。人間の業はそれくらい深い。

ところで、ぐうたららばい第1作の『観光裸(かんこーら)』は、やはり男女ふたり芝居で、糸井が7年かけてそれを狙ったとは思わないが、もしかしたらあの男は楓太郎と考えるのも悪くないと思う。なぜなら『観光裸』は不倫旅行に出かけたカップルの話で、男が既婚者、女は独身という設定であり、男に家庭があることを女は責めも嫉妬もせず、それも男の一部というように慈しんでいる話だったから。きっと彼女は、幸福と罪が共存することを知っていたのだ。


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