歌舞伎座八月公演『新・水滸伝』で思い出した大事な縛り


始まってしばらくすると、不意に胸が締め付けられるような感覚を覚えた。かつて何度も感じたことのあるこの空気、これは一体何だろうと辿っていくと、「ああそうか、二十一世紀歌舞伎組だ」と思い出した。『新・水滸伝』は、2008年に横内謙介が二十一世紀歌舞伎組のために書き下ろしたものなので当たり前と言えば当たり前なのだけれど、この作品の奥に広がっていて、ずいぶん長いこと忘れていた“ある感じ”がリアルに立ち上がり、懐かしさを超えて迫ってきた。そして、新作歌舞伎が急増している今、これは振り返るべきものではないかと思った。

二十一世紀歌舞伎組は、現・二代目市川猿翁が三代目市川猿之助として孤軍奮闘し、気力体力ともに充実していた40代半ばから始めた団体で、画期的だったのは、家柄、生まれに関係なく自らの一門の若手をメインキャストに配していったことで、演目も意欲的な新作に次々と取り組んだ。猿翁は出演も演出もしたが、哲学者の梅原猛に白羽の矢を立てて台本を依頼するなど、プロデュース能力にも長けていた。スーパー歌舞伎という言葉も彼が使い始めたものだ。やがて、小劇場で活躍していた横内謙介が劇作家として若きパートナーとなり、二十一世紀歌舞伎組の世界観を定着させていく。しかし猿翁の体調不良によって活動はほとんどなくなり、それに伴って一部のメンバーは新派へ移るなどし、今回の上演にも二十一世紀歌舞伎組という言葉はどこにも見当たらない。猿翁のクリエーションを精神的にも作品としても受け継ぐはずだった四代目猿之助の現在を考えれば、団体として復活する可能性もおそらくもうないだろうが、彼らが残した作品はもっと上演の機会を得て良いのではないか。

と言うのは、それこそが冒頭の“ある感じ”の正体なのだが、横内が書いたスーパー歌舞伎の登場人物が行動を起こす時、あるいは物事が動く時、理由が常に感情/理屈にかなっていて無理がない。歌舞伎によくある、万にひとつの奇跡や運命のいたずらが何度も続くような奇跡は起きないし、理不尽な上からの命令を無理に飲み込む人もいない(無粋を承知で念のために書くと、それが悪いと言っているのではない。むしろそれを堂々とやるのが歌舞伎の良さのひとつだと思っている)。登場人物が気持ちを変える、考えを改める時は、ビリヤードの球が別の球に当たって動くように、相手の言葉、行動、思いに触れて変化が起きる。悲運も幸運も、天からではなく人と人との関係性によってもたらされる。

とは言え、メリハリの効いた勧善懲悪の物語世界があり、かつまたスペクタクルであることが大前提なので、時間や空間の飛躍があったほうがカタルシスが生まれやすいし、それに伴う感情の飛躍なら、観客もさほどの抵抗感を持たずに受け入れられる。けれども横内の戯曲は、人間の感情の流れを丁寧に追い、関係性の変化を自然に成立させることこそが、古典と決定的に異なる自分達のアイデンティティであり、二十一世紀歌舞伎組の新作歌舞伎なのだとでも言うように、頑なにそれを守る。

歌舞伎の語源は“傾く”だから。昔からなんでもありだから。原作がそうだから。その上に新作なら、より自由であるはずだから──。そうした、枠を取り外すことを全面的に肯定し、でもその理由は何となくのまま次々と新作歌舞伎がつくられ、スーパー歌舞伎もⅡとなってビジュアル的な仕掛けに力が入れられるようになって、デジタル技術も進化しているし、それはそれで良いけれど、自戒や自制を持たない芸術芸能は、果たして美しいだろうか。禁忌や不可侵を意識しないそれは、長い時間に耐える美学や哲学を持ち得るだろうか。

『新・水滸伝』も全ての登場人物が充分に内面を描かれているわけではない。けれども、市川笑也演じる美女の青華が、市川猿弥演じる王英に心が傾くのは、外見だけでなくありのままの自分を肯定されたことに始まり、さらに、自分の内から生まれる喜びを感ることこそが幸せで、それが得られる青華の人生を願うという王英の言葉に、頑なだった心が開いていくエピソードには説得力があり、そこが丁寧に描かれていたから、初演時には意識されていなかったであろう多様性との重なりや自己肯定という今日性が奇しくも生まれた。

ただ、付け加えておかなければならないのは、今回の演出を横内と杉原邦生が協働していることの重要性で、心情を丁寧に追うとどうしても落ちるスピード、躍動感を、杉原の演出が補っているのは間違いないだろう。

そしてこの記事を書きながら思ったこと。梅原猛が書いたスーパー歌舞伎『オグリ』、歴史の知識の豊富さと、シンプルで強い画づくりのセンスから栗山民也に演出してほしい。『ヤマトタケル』は杉原が満を持して、という形で。横内の『八犬伝』は、大人数の野外劇でもひるまない西沢栄一はどうだろう(この人はもっともっと評価されるべき)。

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