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つかこうへい戯曲から熱を取る。文学座アトリエ公演『熱海殺人事件』

やはりここから始めなければならないと思うので正直に書くと、つかこうへいは私にとって、ずっと評価しづらい劇作家・演出家だ。実は、上演を観て心の底から楽しめたことがない。

それは、出会ったタイミングが中途半端雑だったことがまず大きい。雑な表現になってしまうけれど、つかの演出家としての現役時代には間に合ったものの、劇作家としての現役時代には間に合わなかった。少し詳しく書くと、鮮やかに時代を塗り替え、多くの人が「そうだ、欲しかったのはこれだ」と目の前の舞台を観て確信する作品を次から次へと生み出した時期を知らず、私がようやく触れた時のつかはもう、自身の過去作品のメインキャストに、知名度は高いが演技力は未知数の俳優を配して、彼や彼女のポテンシャルを引き出すことにやり甲斐を見出している演出家だった。例えば、阿部寛は完全につか演出によって演技に開眼したし、俳優・草彅剛の覚醒に手を貸したのは有名だろう。ややすると、北区つかこうへい劇団を設立し、いわゆる無名の若手を募って育成することにも注力した。成河はそこでつかの薫陶を受けている。こうして書いただけで「演出家何人分だ」と驚くような功績だ。
それを理解しつつ、上演の度に触れる戯曲の言葉や設定を、私はすんなりと受け入れることが出来なかった。なぜなら、多くの作品に苛める者と苛められる者が登場し、苛めの理由は「見た目が悪い」「地方出身」「子供が産めない女」など表面的なもので、絡み方は理不尽かつ執拗、とりわけ、その先に「苛めたほうだってつらかった」という回収が用意されているのが不愉快だった。香具師の口上のような耳馴染みの良いリズム、聞く者を煙に巻く話術、興が乗るにつれ上がる俳優の熱量とスピードは笑いを生み、通常の理屈では通らない筋を通し、そのスリルを蜜として観客に味わわせ、差別の共犯者に巻き込んでいるように思えた。
おそらく書かれた当時はそうではなかったと想像する。無理を通しているようで巧みな構成、言葉の意味が一瞬でひっくり返るような配置とともに、時代に向けられた刃物のような鋭さがあったのだと思う。1974年の岸田國士戯曲賞を受賞した『熱海殺人事件』の選評で、当時の選考委員の矢代静一が「人生を斜に構えたような作者の柔軟な姿勢と、エスプリのある会話」、山崎正和が「知的な構想と乾いたせりふ」と評していることからも、決して俳優の熱気を当然とした作風ではなかったことが伺える。

9月4日、文学座アトリエ公演『熱海殺人事件』を観た。上記のように『熱海殺人事件』は、当時最年少でつかが岸田國士戯曲賞を受賞し、早熟な才能として注目を集めるきっかけになった戯曲で、そもそも新劇の老舗・文学座に書き下ろしたものだった。けれども久しく文学座では上演されず、一昨年、この企画が発表されると、その歴史を知る人からは待望の、知らなかった人からは驚きと歓迎の声があちこちから聞こえた。しかし緊急事態宣言によって延期となり、当初の予定から遅れること1年半、客席数を減らし、生配信公演日を設置するなどのコロナ対策をした上でのリベンジ公演だった。
……という情報を書き並べると、つい、気合の入った作品を予想しがちだが、これがまったく正反対で、実に注意深く、徹底して熱狂と距離を取ることに心血を注いだ上演だった。演出の稲葉賀恵は、初演版の戯曲を採用した上で再構成したというから、はじめからそれが、今この作品を上演したい理由だったのだろう。つか戯曲が最初に持っていた乾き、エスプリの時代を射抜く機能を再起動させたかったのではないか。
そのためにどんな具体策が打ち出されたか──。とにかく観客が没入しそうなものは排除し、没入しそうになると直ちにひんやりした風を吹かせる。とにかくそこに心血が注がれていた。

私が最初に驚いたのは、同郷の女子工員アイ子を殺した容疑で取り調べを受ける大山金太郎(奥田一平)の態度だった。彼は、全国の警察でその名を轟かせる警視庁の部長刑事・伝兵衛(石橋徹郎)の部屋に通され、赴任したばかりでやる気に満ちた若い刑事・熊田(上川路啓志)と伝兵衛を前にしても、一切、怖がる様子がなく、へりくだることをしなかった。これまで私が観た『熱海殺人事件』の金太郎は、無実を主張しながらも、ふたりの刑事のテンションに当然のように怯えていた。反抗はしたが怖がった。つまり最初から上下関係が固定されていたのだ。けれども奥田演じる金太郎は、テンションの高いふたりの刑事による理不尽な話を、表情を変えず最後まで聞き、大声を上げることなく淡々と反論した。これだけで前述の「苛める者と苛められる者」という関係性は不成立となる。
また、婦警のハナ子を、若い女性の俳優でなく、文学座の中でも中堅の山本郁子を配したことも大きい。山本が選んだ硬質な演技によって、ハナ子は伝兵衛に心酔する便利な愛人の要素から解放され、伝兵衛をうまくあしらえる優秀な秘書になった。金太郎がアイ子を殺す再現シーンでは、赤いワンピースに着替えてアイ子も演じる山本だが、通常、若いふたりの始まらないまま終わる恋と、伝兵衛(既婚)とハナ子(独身)の出口のない関係が重ねられるが、それもなかった。
美術(乗峯雅寛)も然りで、舞台奥に白い紗幕が吊るされ、そこに「熱海殺人事件」と映されて始まるオープニングは「これからお芝居が始まります」の合図だし、あえてスタッフによる小道具の出し入れを見せるのも、物語や登場人物へ没入しようとする意識を切断する。その点ではドラム(芳垣安洋)とギター(助川太郎)の生演奏も貢献していて、曲も盛り上がりに到達する前に終わるし、ミュージシャンは短い曲を弾き終わるといちいち裏に引っ込む。その度に風景も音も相対化される。これはある意味、ポストドラマ・ミーツ・つかこうへいなのかもと思った。
そうまでして稲葉が熱を取り去ったのは、私が感じ続けていた違和感、つまり今の時代のコンプライアンスに照らすと完全にアウトなつか作品を、現代に通用するよう検証し、蘇らせる挑戦ではなかったか。

その点で、この上演は好成績を収めたと思う。決してピークに行かせてもらえないままエンディングを迎えた物語は、最後の伝兵衛の長ぜりふを虚しく悲しく響かせた。カットされることもある最後のシーンは、伝兵衛が、警視総監に解決したばかりの事件を意気揚々と電話で報告するのだが、実は当てずっぽうに回した番号で、まったく関係のない相手に事件の詳細と、そこから続く伝兵衛の日本社会への憂いが語られ、フェイドアウトしていく。実はこのせりふは元の戯曲とは異なるものに差し替えられ、分量は多くないものの、もとのバージョンにはないせりふが書き足されている。「警視総監殿、日本は今、大きく病んでおります。この街の喧騒は一体何なのでありましょう。この悲劇の如何ともしがたい生き延びようは、一体何なのでありましょう。姑息な市民の生き延びように、不必要な要素を取り去るために、法律を作動させ犯人を仕立て上げる私は自らの責務を憂えております。時代は薄く夕暮れをひいて、闇の絶えた街頭に、しのぶ術なくたたずんでおります。明日を味わうようにして祈っております。」
これが、つかの第二稿あるいは第三稿のものか、今、調べる手立てがない。けれどもこのせりふからは、伝兵衛が自分の無力さを自覚していることがよくわかる。どんなにめちゃくちゃなルールでも、自分が決めて大声で号令をかければ全員が従う──。小さなコミュニティの父親として暴君のごとく君臨しているのがポピュラーな伝兵衛像だが、この演出では、そのルールが上からの要請であることと、家の外に広がる伝兵衛の意識を確認できる。こんな伝兵衛を私は初めて観た。と言うよりも、こんなつか作品の登場人物に、ようやく出会えた。

ただ、では私がこの上演を、待ち望んでいたアンチマチズモのつか作品として胸のすく思いで観たか、楽しんだかと言えば、残念ながらそうはならなかった。熊田の緩急のない大きな声が原因かとも考えたが、戯曲そのものに、中途半端な相対化を拒む強さ、あるいはマチズモが作品の根に深く絡みついているのかもしれない。だとしたらむしろ稲葉にはこの先も継続的につか戯曲に取り組み、それをほぐしていってほしいと思う。また、「これはある意味、ポストドラマ・ミーツ・つかこうへいなのかもしれない」と先に書いたが、観客の理解など知らぬ、というポストドラマの冷たさが足りないとも感じた。もしそれを意識していたなら、一層徹底して突き放していい。もっとよく知りたいという欲求は冷たくされると生まれるはずで、その冷たさは美しく研ぎ澄まされていてほしい。

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