新型コロナと日本の演劇2020年6月の雑感

3月下旬から本格的な自粛生活が始まって、約2ヵ月半、ほとんど徒歩圏内にしか出かけず、止まったような生活を送っていた。もうしばらく続くのだろうとぼんやりしていたら、窓の外の景色が最初はゆっくり、次第に速度を増してどんどん変わっていくようになった。停車していると思っていた電車が動き出し、各駅から急行になっていくようだった。変わる景色を眺めながらつらつらと考えたことを書き留めることにした。きっかけをくれたのは、Twitterで声をかけてくれた細谷貴宏さんだった。とりとめのない文章の連なりとなったが公開もすることにした。背中を押してくれた細谷さん、ありがとうございます。

① 細谷貴宏さんとのやり取り
 ──いくつかのオンライン演劇を観たあとで──


6月5日、Twitterに3つの投稿をした。そのうちの2つは当時(と言うと大袈裟かもしれないが、コロナ禍の公演形態は日進月歩の速さで増殖していて、わずか20日前でも“当時”という感覚に近い)のオンライン演劇に関する私見だった。

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ほどなく、そのツイートの詳細な意図を「差し支えなければ教えてほしい」と問うリプライをもらった。自分としては瞬間的な負の感情に任せたのではなく、それなりにたまった思いがあっての投稿だったのだが、確かに言葉足らずな部分もあり、また、特に後者のツイートには意外なほど多くのリツイートやいいねの反応があって、それはつまり誤解が生まれている可能性も高いわけで補足が必要だと思ったものの、短い文章が刻々と流れていくTwitterはそれにはふさわしくないと判断した。とりあえずリプライをくれた人に説明しようとしたが、連絡先を知る仲ではなかったので「一時的で良いので相互フォローにしてもらえないか」とお願いし、TwitterのDMで、件のツイートを書くに至った説明を送った。
それに対して、とても重要な指摘を含んだ返事をいただいたので、了承を得て、私のメールと併せて下記にほぼそのまま(挨拶などは省略した)転載する。
その人というのは劇作家・演出家・俳優の細谷貴宏さん(@hossan1106)で、一方的に舞台を拝見することはあったが、この日まで交流はなかった。
また、細谷さんを追いかける形で、劇団範宙遊泳の俳優である埜本幸良さんからも「自分も真意を知りたい」とリプをもらったので、彼にも、細谷さんへの最初のメールと同じものを送っている。

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細谷さま

2011年というのは東日本大震災と福島原発事故を指します。その頃すでに東京にいらしていたら余計な情報ですが、直後は東京でも余震が多く、計画停電の危惧もあったので取りやめになった演劇公演も少なくありませんでした。
お客さんのほうからのキャンセルも多発しましたし、公演を決行する団体や劇場に「また大きい地震があったらどうする」「演劇をしている場合か」「電気の無駄遣いだ」という非難もありました。

そうした中でも少しずつ、公演が行われるようになりましたが、その時、必ずと言っていいほど、開演前かカーテンコール時に主宰者や主演俳優から「こんな時に公演していいのか迷いはありましたが、座組のみんなで話し合い、こんな時だからこそ自分達にできるのは作品をつくることで、公演することに意味があると決断しました」という挨拶を聞きました。ほとんどテンプレのようなアナウンスでした。
でもそのほとんどの作品は、震災や事故に影響を受けておらず、もちろんその作品は震災と事故の前から準備されていたものなので内容に関しては仕方ないとしても、「こんな時だからこそ」の決意は特に感じられず、それは後付けで、震災と原発事故を上演のエクスキューズに使っているように感じられる作品がいくつもありました。私にとってそれは、非常に不誠実な態度に見えました。

細谷さんはチェルフィッチュの『部屋に流れる時間の旅』をご覧になりましたか。震災直後に亡くなった妻が、そのタイミングゆえに「この国はこれから良い方向に変わる」という希望を持ったまま時間が止まっている幽霊で、その心理状態のまま夫の部屋に留まっているという設定です。彼女は、地震に驚いて避難した近所の駐車場で、普段は挨拶すらしなかった近隣の人達と会話した思い出などを楽しそうに、愛しそうに話し続けます。夫は、そして観客は、妻が抱き続けている希望と同じものをかつて感じていましたが、でも現実にはそうならなかったことを知っています。

私は、あの時に使われた「絆」という言葉や概念が悪いほうに作用し、同調圧力の強化や排斥主義や、物事を表面上で捉えて終わるという日本的な心理を推し進めたと感じています。被災者を思い、多少の寄付をして、なんとなく安心してしまう短い回路が「絆」というふわっとした言葉に集約され、その回路から外れる事態や人は見えないことにしてしまった。コロナのことであらわになった分断に、あそこから始まったものも含まれていると感じています。

最近、作家や哲学者や政治学者が「コロナがグローバリズムや新自由主義の限界を露呈させた。今は新しい価値をつくるチャンスだ」と言っているのを、新聞やネットの記事で見かけます。そうかもしれないと思います。本心ではそう簡単ではないと思っていますが、世界が同時にこれだけ大きな変革を体験することはもうあまりないはずで、その意味では大きな大きなチャンスです。でもそのためには「頑張る」とか「笑顔」とか「必死」などの、「絆」に類する抽象的な態度ではだめなのです。
頑張ろうと話し合って必死に演劇をやれば拍手をくれる人は絶対にいるし、感動して泣く人も素敵だねと笑顔になる人もいます。
でもそれはその場が気持ち良いだけの、考えることを止めさせてしまう危険なキーワードです。
その先に行かないと、演劇は感情で終わってしまう。喜怒哀楽や快、不快で終わる演劇があってもいいのですが、それだけではないはずで、その可能性を放棄してしまう体育会系のノリを私はこのところ感じるのです。
災禍そのものより、それが起きたあとに精神論、根性論が幅を利かせ出す時、災禍は真の意味で人間にとって悪いものになる。それが私が感じている危機感です。
伝わったでしょうか……。

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徳永さん

まず、徳永さんへの質問を行なうに至った経緯を説明いたします。

徳永さんがなさった投稿の中にある幾つかのフレーズ、具体的には<ふわっとした根性論><無かったこと感がヌルヌルと広がって>等の言葉によって当該の投稿にまず「語調の強さ」を感じ、この強さがともすれば「攻撃的」なものとして受け取られかねない事態を危惧しました。そしてその受け取られ方をする余地や可能性がある(と自分には感じられる)ままに投稿が拡散されることを憂慮しました。

140字の限られた字数では、自分には、徳永さんが丁寧にお返事してくださったことまでを読み取ることができず、昨日のように質問させていただいた次第です。

こちらからお伺いした大きく2つの質問点、それについて徳永さんの教えてくださったことについて、理解いたしました。それを基に、先の投稿を読み直し、徳永さんの書かれたことの意味を再解釈することができました。

<精神論、根性論>が幅を利かせることに可能性を見出せないというご指摘について、このことには溜飲が下がる思いと同時に身の引き締まる思いです。自身の過去の振る舞い方を省み、未来に思いを馳せることとなりました。

このことをお伝えし、改めて感謝を申し上げたうえで、先に書いた「危惧」や「憂慮」について付け加えてご説明すると、件の投稿により、その伝わり方によって「摘まれてしまう芽があるかもしれない」と感じているということです。

もちろん、徳永さんにそのようなことを行なう意はないものと思っております。しかしながら、ギリギリの場所にある(という曖昧な言葉で申し訳ありません)パフォーミングアートの今の状況の中で、何らかの強い力(という、またしても曖昧な言葉で申し訳ありません)によって、これから行なわれる表現がひとつでも減ぜられることを望みません。

いまのこの状況でパフォーマンスが(新しく/再び)行なわれることには様々な理由・事情があると思います。それを前提として、再開されたパフォーマンスがどのような未来につながるか、自分には「未知数」と感じられます。徳永さんが<まったくそれに当たらない>とおっしゃるプロジェクトについても、自分にはその判断が今はまだつけられません。判断をする立場でないとも思います。パフォーマーであるその当事者として、この状況について考え続け、この状況のなかで試行すること・実行することに力を使うのみです。

徳永さんが、演劇をはじめパフォーマンスの未来について考えてくださること、言葉を尽くしてくださることには大きな意味があると考えます。私に教えてくださったことは、先の投稿と併せ、ひろく読まれ、検証されるべきものと感じます。

以上です。私の不勉強や浅学による曲解や、徳永さんにとってご本意でない箇所がありましたら、どのようなことでも教えていただけますと幸いです。また、意図せず失礼な伝わり方をする表現がありましたら、お詫びいたします。

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細谷さま

こんにちは。誠意あるお返事をありがとうございます。
どこまでもバラバラに散らばっていきそうな問題を注意深くまとめてくださり、また、私の実体験に基づく狭い話を広い射程で捉え直していただき、とても打たれしました。

細谷さんがご心配していらっしゃることは、まさにそうで、自分のことかと思って傷付く人だけでなく、これからを考えている人の入口を塞ぐことになりかねない強い言葉だったと思います。
私自身、逡巡もあったのですが、あそこに書いたように、演劇の時計を巻き戻すような表現や態度に続けて出合い、それをスルーすることへの危機感のほうが、私の中では勝ってしまいました。そのベクトルを引っぱっていくと「頑張ればコロナを乗り越えられる」という、まるで与党のような精神論にたどり着く気がしたからです。
そのシグナルの点滅を、届く人にだけでも届けたいと、やむにやまれずツイートをしました。やむにやまれず、というのは、2ヵ月以上に渡る演劇の自粛期間に私が感じた諸々の、小さなストレスの積み重なりでもあったのだと思います。
けれども、思いがけず多くの人から反応があり、反応の母数が大きければどうしても、誤解する人、それを攻撃の道具にする人などが出てきますから、それを少しでも防がなければと考えていました。

自分ではそこにいるつもりはなくても、おそらく話しかけづらい立場というのがあって(単に年齢なのかもしれませんが)、細谷さんがこうして言葉を尽くし、真正面から私に対峙してくださることは、きっと勇気の要ることではなかったかと思います。
それでも行動に移し、私のことも心配してくださって、本当にありがとうございます。

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これ以下は、私から細谷さんへ2通目の返事でうまく応えられなかったこと。
細谷さんが書かれた
「いまのこの状況でパフォーマンスが(新しく/再び)行なわれることには様々な理由・事情があると思います。それを前提として、再開されたパフォーマンスがどのような未来につながるか、自分には「未知数」と感じられます。」
という意見はよく理解でき、その芽を摘みたいという意図はまったくない。事実、私はいくつかの配信をとても楽しんでいるし、自分にとっての演劇の定義が更新される体験もさせてもらっている。工夫を重ね、本来の形に極力近付けた配信や上演も体験し、それぞれに楽しんだり楽しめなかったりしたが、それらの感想は6月5日のツイートとは本質的に異なる。

改めて書くと、私が否定的な感覚を抱いた/抱いているのは、ひとつは、配信や感染拡大の対策に四苦八苦することが、無意識ではあっても“災害というイベントに参加している感”になってしまった人達だ。
それに当てはまる人を本当に判断ができているかと問われれば、数値化できるものではないのでわからない。けれども、先に書いたように東日本大震災と福島原発事故のあと、ただ神妙な顔付きで「私達も上演するか悩みました」と言いながら公演を打っていた人達とよく似た振る舞いは確かにあり、そのメンタリティが良い未来につながるとは思えないのだ。
そしてもうひとつは、「笑顔や元気を届けるために」といった言葉を公演実施の動機にしている人達。今、最も確実に元気でいる方法は出かけないことなのに、その矛盾を温かな言葉で隠していることに憤りを感じる。

ワクチンが開発され、安価で世界中に普及するまで、以前のような興行形態には戻れず、それがいつになるか誰にもわからない。そんな中で演劇の灯を灯し続けていくには、自分(達)が譲れない演劇の条件を冷静に洗い出し、そこから新しい表現やシステムを探るか、ずっと大事にしてきた方法をこれからも続けていくかではないか。

そうした疑問の答えには至らなかったが、自粛期間中に考えていたことで、演劇の今後とつながっていきそうなものを下記に書く。

これからも作品より俳優か

②-1  日本で過去作の配信が少ない理由

新コロナの影響で閉鎖せざるを得なくなったヨーロッパの多くの劇場から過去の演劇作品(バレエやオペラも)が次々と配信された。社会の中の劇場の役割、存在意義を保ち続けるためという理由もあっただろうし、寄付を集めるためだったかもしれないし、創客のための投資だったかもしれないが、とにかく大盤振る舞いだった。
きちんと調べたわけではないが、それを実施したのはほとんどが公共劇場だったと思う。
日本にも公共劇場はあるのになぜそれができないのか。公共劇場の数、歴史、予算、社会的な位置付けなどがそもそも違うという大前提はあるが、それらを除いたもうひとつの理由を、私は、日本の大半の公共劇場が、限りなく民間劇場に近い作品制作をしているからだと考えている。
劇場が専属の劇団を持たないこともあり、チケットが売れることを強く意識したキャスティングが行われるため、俳優が所属する芸能プロダクション主導の契約がなされる。その中には、映像化、放映化の金額や諸条件のハードルが高い事務所が少なくない。出演者が複数いる作品では、そうした事務所がひとつでもあれば映像化や配信は実現が難しい。
上記の問題だけが理由ではないだろうが、ひとつのネックにはなっているはずだ。例えば数年前、ある演劇雑誌の編集者からこんな話も聞いた。「最近は昔の舞台写真を掲載するのを(俳優が所属するプロダクションから)断られることがよくある。理由は、現在の姿と比べられるとイメージが悪くなるから」というもので、いつから俳優は、きれいなままでいるのを重視する職種になったのかと驚いた。
しかし私自身も、インタビュー原稿の語尾を過剰な敬語に直されるなど、日本の芸能事務所の俳優に対する行き過ぎたイメージコントロールを感じることは少なくない。こうした問題の背景にはおそらく、CM契約が何より大事という芸能界の常識があると予想するが、これが改善されないと、配信を含め、今のような緊急時には俳優が観客の目に触れる機会が減っていくだけで、俳優サイドにとってもデメリットではないだろうか。

コロナ禍で健闘した日本の劇場に、静岡のSPACと兵庫のピッコロがある。SPACは、俳優が市民に電話を使って朗読をする、You Tubeのチャンネルを開設して教科書に載っている文学作品を俳優が自由に演出を考えて朗読するなど、独自の活動を次々と打ち出した。ピッコロ劇団も所属俳優がひとりずつ、好きなせりふを語る動画をTwitterを通して配信した。どちらも劇場と俳優を身近に感じられる活動で、それぞれの劇場の企画力や俳優の魅力を広く伝える結果につながったと思う。
これを機に他の日本の公共劇場も、専属の劇団をつくる、専属の俳優を抱える方向に舵を切ってはどうだろう。

と同時に、映像化への取り組みにも力を注ぐ時が来ているのかもしれない。もちろん、舞台作品を映像で残すことに抵抗があるという演出家もいるだろう。千秋楽の翌日は跡形もなく消えてしまう儚さ、潔さが演劇の良さだという考え方は私も大好きなので、それを貫きたい演出家や座組はそのままでいてほしい。
ただ今後は、間引きする座席分のチケット代を配信でカバーすることが前提になる可能性は高い。とすれば、せっかくなら記録映像ではなく、きちんとした形の映像作品にしてほしい。そうすれば映像技術者の雇用も生まれるし、むしろ実際の舞台への渇望も生まれるのではないかと思う。
利益のみならず、作品を深く理解するファンを生み出したイギリスのナショナル・シアター・ライヴは、作品によってはかなり凝ったカメラワークと編集が施され、映像ならではの仕上がりになっているが、大半の人は実際の舞台と別物として楽しみ、同時にあれを「演劇ではない」と言う人はいない。日本でも劇団☆新感線が早くから同様の取り組みをしているので、ノウハウは身近にある。

小劇場の作品が配信できないのは、劇中で使用している既存曲の許可を取っていないからとよく聞く。オリジナルの楽曲制作には一時的にお金がかかるけれども、劇場での上演とネットでの配信を並行する方法が一般化することを考えれば、そこは予算を割いたほうが得策だし、これからは俳優との契約もきちんと取り交したほうが良いかもしれない。


②-2  赤字回収はファン頼みか

上記のようなことから、コロナを機に俳優主義から作品主義への見直しができないかと考えていたのだが、現実の流れはむしろ逆で、俳優主義が加速しそうだ。
中止になった公演のチケット払い戻しに関して「推しに寄附するつもりで払い戻しはしない」という意見を少なからず見聞きしたし、人気の高い俳優が前面に出た基金は寄附が集まりやすかったように思う。
また、チケットぴあを運営するぴあが新しく始めた[re:START]
https://lp.p.pia.jp/restart/
の柱のひとつになっている「写真やメッセージ入りのオリジナル電子チケットを購入することで、アーティストの今後の活動を応援」は、好きなアーティスト(演劇では俳優)のファンの懐を充てにしたものだ。
ぴあを始めとするプレイガイドやプロデュース会社などが新型コロナで受けた経済的打撃の大きさ、回収への不安は理解しているつもりなので、それらを責めるつもりはない。ファンの「好きな俳優を、カンパニーを応援したい」という気持ちは演劇が広がっていく基本だと思う。
けれどもファンの脛にも限界がある。経済的に余裕がある、あるいは、無理をしてでも応援するというファン以外にも、観客を増やさなければ先細りは目に見えている。構造的な変化が必要なタイミングだし、その変化の中には、作品主義の考え方が組み込まれたものがあってほしい。


③改めて、演劇とは

③-1 炎上と笑い


最近ようやく下火になったものの、大型イベント自粛要請が出た2月下旬からしばらく、演劇界の何人かが強いバッシングを受けた。それぞれの発言に配慮の足りない表現があったのは事実だし、中には個人的に賛成しかねる意見もあるが、今になってみると、新型コロナへの恐れが日常に入り込んできた第一段階の恐怖を演劇が引き受けてしまった、スケープゴートになってしまったように思える。
それとは別にずっと考えているのが「誰かがもうちょっと、うまいことを言えなかったのかな」ということだ。「うまいこと」というのは、ユーモア、ウィット、とんち、機知に富んだ切り返し。
笑いが後退しているのは世界的な傾向だろうし(正確な数字はわからないけれど、70年代や80年代と比べて洋画におけるコメディ映画の比率は明らかに減少しているだろう)、特に日本では東日本大震災と福島原発事故を契機に「ふざけている場合か」という不文律が非常に強くなったので、笑いそのものの取り扱いが難しくなっているけれど、硬直した社会を解きほぐす役割を演劇(だけではなく文化芸術全般が当てはまるけれど)は持っていたのではなかったか。
前述のように2011年が大きな契機ではあるが、バブル崩壊後、つまり国民の所得が減って経済的な余裕がなくなるのと、世の中の笑いの存在感が薄れ、笑いが安全なものになっていくのはリンクしていたと私は考えている。具体的には、企業のスポンサードが減り、長期的な生き残りの手段として「演劇は社会の役に立つ」という公共性を強調する/しなければならない場面が増え、気が付けば、演劇はすっかり真面目になっていた。
あまりにも酷いバッシングを笑いで混ぜ返せば、さらに炎上する可能性は高い。けれど堅いものに堅いもので対抗するのでなく、堅さを無効化する柔らかさ、軽やかさが差し出せなかったか。クスッとするようなウィットが含まれた鮮やかなひとことが演劇人の誰かから出ていたら、具体的な解決には至らなくても、また、敵は減らなくても、味方は増えたのではないかと思う。
誠実に演劇のために戦ってくれている人に不満を言いたいのではない。ただ、演劇が長きに渡って笑いを蔑ろにしてきたツケが、ああいう形で出てしまったのかもしれないと、わりと本気で考えている。

③-2  薬と毒


自粛が始まった頃、ふと、ずっと家にいるなら飲み物はすべて白湯にしようと思い立ち、特に禁断症状が出ることもなく、そのまま毎日を過ごしていた。
ところが、配信の演劇を観始めるようになるとコーヒーや紅茶や緑茶を飲まずにはいられなくなった。その変化を経て「ああ、演劇は刺激物なんだな」と理解した。演劇という刺激が目や耳から入って来るから、それとバランスを取るために体がカフェインを摂りたがっていると感じたのだ。

そして、演劇は毒でもあることを思い出した。演劇は薬だと聞き続け、そのつもりになって自分でもそう言った。確かに演劇は社会の薬になる。コミュニケーションや教育などのさまざまな場面で役に立つ。実例は枚挙に暇がない。けれどもともと毒と薬は紙一重で、演劇は決して薬だけの存在になったわけではない。その証拠に中毒性がある。
演劇人や演劇へのバッシングの中には、演劇不要論をロジカルに展開できる人もいただろうが、本能的に演劇が毒である部分を感知して怖がっている人もいたのではないか。その恐れ/畏れは、否定したり排除したり懐柔したりするのではなく、遠くの灯台のように、自分のいる場所を知る大事な目印にしなければいけないものだと思っている。


#演劇 #日記 #雑感




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