『スワン666』 飴屋法水たち のこと

 千秋楽にもう1度観に行くので、そのあとの感想はまた変化するだろうし、何回観ても全容をつかむことは他の作品以上に難しいだろうから、不充分な内容になることを承知で書く。(実際に追記しました)
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 演劇を観ていて私の中で時々発動する作品の分け方がある。それは、フイギュアづくりに例えると、粘土を少しずつ盛ったり削ったりして完成に近づけていくやり方と、つくりたい形が空白になるように削り出した素材を外側から組み合わせるやり方で、大半の作品は前者なのだが、ごく稀に後者の作品に出合う。これは、久々にそれだった。
 後者のほうが希少だから価値があるという話ではないし、どんな作品だと後者なのかという条件をうまく説明はできないのだけれど、なんというか、つくり手たちが大事だと考えているところが、他とは異なる感触がある。
 この作品で言えば、ショッキングな内容をリアルに伝えるのが目的なのではなく、仕掛けの、メタファーの、段取りの、息遣いの緻密さに、多くの注意が払われていて、その結果、こまやかなリアリティが生まれるように設計されているのではないか。軸足が置かれているのは、強度ではなく精度。テーマ(に見えるもの)自体ではなく、それが届く確率を上げるために、言葉や発声や動きや美術や音をどう配置してどのタイミングで動かすか、への冷静な血道が上げられている作品なのだ。

 『スワン666』は、ポラーニョの小説『2666』がおそらく原作だろうという指摘をTwitterで目にして、未読だったのでウィキ先生に頼り、メキシコで起きた大量殺人、それも大半はレイプされたのちに残虐な方法で殺された女性の死体が見つかった事件が題材になった話だというところまで情報を入れて出かけた。
 劇場になる前はサウナだったという会場のBUoYは、三方に客席が設えてあり、どこに座ってもそこだけでしか観られない風景があるだろうと思いつつ、巨大な水槽の近くに席を取った。水槽は“厳重に手足を縛られたマジシャンが入って◯秒以内に脱出しないと爆発する”マジックに使われるようなサイズで、おそらく飴屋が入るのだろうなと予感したからだ(その通りだった)。
 会場には、たくさんの、さまざまな色のマネキンの手足や胴体や頭部が散乱していて、ペンキなどで汚されているものもある。あとは壊れたベルトコンベアー? ベッドはあっただろうか? 汚れたドレスが柱に掛けられていたり、まあ、若者が肝試しに出かけて後悔する廃墟のようだった。題材になった小説を知らずとも、入った途端に誰もが不穏な空気を感じるだろう。

 始まりは山縣太一だった。観客には見えない誰かに向かって話しかける。話し方も動きも丁寧だ。だけれども、その間合いに得も言われぬ迫力があり、話しかけられている相手は絶対に逆らえない丁寧さだとすぐに理解する。そしてある言葉を彼が言った途端、天井に仕掛けられていたのだろう、ポチャ、という音を立てて水槽にマイクが落ちた。
 挿入、の瞬間だった。マイクはペニスを表している。山縣は、たとえば腰を動かすなどのそれらしい動きなどしない。やはり丁寧に、けれども緊張感を高めて、相手に話しかけ続けている。そしてある言葉を彼が言った時、今度は水槽の中でジャバジャバと泡が立った。射精したのだ。合意のない相手の膣の中に。それは何度となくそこで繰り返されてきたことで、水槽に張られた大量の水は、彼がそれまでに暴力で関係を結んだ相手の中に放ってきた精子というわけだ。彼女は間もなくじっくりと殺されるのだろう。その一連が彼女の前にも幾度となく繰り返されてきたことは、散らかったマネキンたちが示している。

 この作品には、被害者は見える形では登場しない。山縣演じるすでに加害者の男(国籍も時代も不明)と、小田尚稔が演じる加害者になってしまう可能性を秘めた男(現代の日本を強く感じさせる)、そして加藤麻季が演じる被害者になる直前かもしれない女(だがそれまでの被害者とは違う心理を感じさせる)と書いていたが、2回目を観て、次のように書き直す。
(登場人物の中で最も丁寧に内面が描かれている。丁寧というのは説明的ということではなく、断片的で複雑であることがそのまま提示されているという意味で、つまり被害者は誰ひとりとして“かわいそうな匿名の被害者”ではなく、だからこそ、どんなに大量に積み上がっても死は個別であるということを表す人間)がいて、彼らの言葉や運動が互いに作用しあい、少しずつ距離を縮め、ラストシーンで一分の隙もなくピタリとはまった時、被害者の型が浮かび上がる。それは透明なのに、すごい内圧がかかっていて、今にも爆発しそうだ。

 さて、では飴屋はどんな役割かと言えば、他の多くの出演作と同じく、弔う役を担っている。
 『スワン666』を観て気付いたことの中で、私にとって最も重要だったのは、マイクがペニスを表していたということではない。飴屋の死に対する姿勢について──今頃かよ、という声も聞こえてきそうだが──わかったことだ。
 飴屋は、自分が出演する作品が死を扱っている時、自分の役が死と関係していなくても、また、ひとりの死も複数の死も、時間が経った死も最近の死も、事故でも病気でも災害でも、そしてフィクションでもノンフィクションでも(この点が最も重要なポイントだと思う)、同じように死を尊び、自分の肉体の安全という鍵をはずして痛みや危険に身を晒すことで魂を鎮めようとする。「あなたが死に際して感じた孤独や恐怖や悲しみや諦めにはとうてい近付けませんが、もしかしたら少しは気が晴れるかもしれません」という気持ちで。
 小田の素晴らしい演技(というか、いわゆる演技をしないでその人物になる、という状態)で、この話は早々にどこかの国のお話でなく、さっき電車で乗り合わせた人と私の話、あるいは、明日、家族から犯罪者が出てしまうかもしれない話になっているのだが、山縣が抑制を効かせながら遂行する“小説の中とBUoY”の行き来もあってさらに、そして最後の加藤のせりふによって未来も含んで、会場にある/会場にない、語られる/語られない、発見された/発見されない、暴力による死が浮かび上がる。その大量の強制された死のすべてに飴屋は、大げさに言えば、人類を代表して謝罪しようとする。理屈で考えればそんなことはできない。だが彼はするのだ。公演期間中、毎晩、レイプ魔が女性たちの体内に放った精液がたまったプールに身を投げて。
 そしてここからも、2回観たあとの追記。
 だが同時に、他の出演者はヘッドマイクを使っている中で、飴屋だけがハンドマイクを使っていたことの意味も考えなければならないだろう。他の作品でも飴屋がせりふを話す時にそうしていることは多いが、ハンドマイクにペニスを象徴させたこの作品においては、もちろん当人たちが無自覚なはずはない。社会に向けた声が実際より大きくなって遠くまで届くマイクは、まさに現社会の男性の優位性の象徴だし、それ以上に、鎮魂にも暴力の芽、立場の上下関係の芽が含まれていることの皮肉、つくり手自身による最大の『スワン666』の相対化ではないか。相対化は、中原昌也の選曲にも現れていて『太陽にほえろ』のテーマソングなど、千秋楽は笑える曲が使われていた。冒頭に書いた、私が感じた“強度より精度”を大事にしている印象は、そうした客観性から来ているものかもしれない。さらに言うなら、性犯罪を糾弾する作品を女性がつくった時と男性がつくった時の私たちのリアクションもまた、問われている。

 音響のことも書いておかなければ。音楽と美術を手がけている中原もすごいのだが、どこにスピーカーを仕込んでいるのかわからない、不穏の先に思考を促す音響がとにかく素晴らしい。中原、池田野歩、飴屋、そして当日パンフレットの協力にはzAkの名前もあって、これは音響に関して最強の布陣ではないか。内容はともかく、音響の勉強をしている人は無条件に聴きに行くことを勧める。





 蛇足かもしれないこと。痴漢やレイプやセクハラが報じられると「襲われる女が悪い」と言う人は昔からいたが、むしろ最近は増えているように感じる。その大半は男性だ。で、ほとんど表には出ないが、沖縄の米軍基地周辺で起きる性犯罪の被害者は、実は女性よりも男性のほうが多いと聞いたことがある。あなたが男性なら、1度想像してほしい。圧倒的に体格も体力も上回る他人に、突然襲われ、殴られ引きずられ、ズボンも下着もおろされ、心身のどちらにも屈辱を受けることを。『スワン666』は、誰にとっても他人事ではない。
 

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