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『エモい』という言葉は決して表現をサボっているわけではないのだ


上司に死ぬほど怒られながら徹夜で準備したプレゼンを終えた時。

特に別れる理由もなく、ダラダラ付き合い続けていた恋人に別れを切り出された後。

就活に落ち続け、途方にくれた夜。


まあ別に何でもいいんだけど、人生を振り返ってみて深い印象に残っている瞬間は誰にでもあると思う。

その時に食べたもの、聴いていた音楽、嗅いだ匂い、見かけた風景。
これらを別のタイミングで同じことをした瞬間に「ああ、あの時はこうだったな」だとか、色々なことを思い出すわけである。

こうした得も言われぬ郷愁、寄る辺なさ、遣る瀬無さを指し、私は『エモい』と言うのだが、ご年配の方に「エモいっすね」と言うとまあ受けが悪い。
私がライターをしていることもあって、「物書きのプライドはないのか」とか言われる。
私の言い方が軽かったせいもあるかもしれないが。

特にうちの父親。父は「エモい」に限らず若者言葉にとことん厳しい。
ら抜き言葉や「〇〇になります」といったなんちゃって敬語は、そりゃもうしつこく指摘してくる。
父は田舎育ちの公務員なので、頭の固さは筋金入りである。

おそらくこういった方々は『エモい』を『ヤバい』とか『パない』のような若者言葉として認識しているのだと思う。実際間違いではない。

しかし、これだけは言わせていただきたい。
言葉の成立こそ近年ではあるものの、私が『エモい』という言葉に込める意味、つまり先述の得も言われぬ郷愁、寄る辺なさ、遣る瀬無さを指した言葉は1000年前から日本に存在している。

『もののあはれ』だ。

詩歌管弦に秀でた平安貴族たちがこぞって表現した”移りゆく季節や人の心を表現した言葉”。
源氏物語を筆頭とした平安文学を理解する上で必須の価値観。

『もののあはれ』なのだ。

平安時代の歌人が”紅葉が散り秋が深まっていく様”や”いつまで経っても自分のものにならないあの人の心”にもののあはれを感じていたように、
私たちも”元カノが好きだったアイドル”や”寒空の下で飲む自販機のあたたかいココア”にエモを感じている。
それだけのことだ。

でも、その瞬間に感じた物事を古語で表現するのも何かが違う。
お花見の席で散りゆく桜を指して「いともののあはれなりぬるなあ」なんて言い出したら、コイツ酔ってんのかと思われてしまう。
私なら思う。

だからといって「幾許の--そうだなあ、郷愁や寂寞に似た何かを感じるね」と言うのも違う。
私は村上春樹ではないから、知的でセンスあふれる言い回しは不釣合い極まりない。ぶっちゃけちょっと恥ずかしい。


だから私は、こみ上げてくる思いを「エモいね」と表現する。こそばゆい、照れ臭い気持ちを抜きにして感じたことをぴったりと表現できる言葉が『エモい』しかないからだ。

『エモい』という言葉に抵抗のある方々は、ぜひこの点を押さえておいていただきたい。
それでも『エモい』は甘えだと思われた方には……まあ返す言葉もない。

言葉には流行り廃りがあるし、使い方も時代によって変わっていく。昨日まで正しかった用法が2年後3年後には違う意味になっていることもザラだ。『壁ドン』とかね。

でも、ふとした拍子に感じた何とも言い難い気持ちを表す言葉は、この『エモい』以外にないのだ。






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