見出し画像

今年のお墓参り

久しぶりに実家に帰っていた。
友人とご飯を食べる約束もしていたけど、
主な目的は、お墓参りだった。


実家から自転車で行ける範囲にわたしが行きたいお墓があるので、空いた時間にひとりで向かう。
いつもはお花も持って行くんだけど、今回はお盆の時期にたまたま帰れたので、誰かが生けたばかりのお花もあるだろう、とお線香だけを持って向かった。

わたしはへそ曲がりで天邪鬼なので、世の中に溢れる形式ばったものを結構嫌うし、不定休の仕事のため行事もぜんぜん大事にできていないのだけれど、お墓参りは帰省するたびに必ずひとりで行っている。

1人でも行くってことは、行きたくて行ってるんだろうなと思う。
会いに行くつもりで、顔を見せるような気持ちで。
もちろんそこに行っても会えないんだけど、会えなくなった人を想う時間を、作っているんだと思う。


多くの人がそうであるように、わたしも大切な人との別れを経験したことがある。

わたしのその経験は、まだ10代の幼い頃だったので、わたしはその人との"別れ"だけを悲しむことができた。

少しずつ大人になって、父や母、そのほかの大人たちが、わたしを悲しませてくれたんだな、と気づいた。
あのとき、わたしたち兄弟を子供でいさせてくれた。自分たちだって泣き叫びたかったのかもしれない。それでもその姿をわたしは覚えていない。そうしたってよかったのかもしれないけれど、そうでなかった両親の気持ちを想像する。

自分と、その人のことだけを考えさせてくれる、悲しみの中にすっぽりおさまることができる場所に、わたしは置かれていたんだなといま思う。

母に、あのとき子供でいさせてくれてありがとう、と伝えたことがある。
そんなの当たり前でしょ子供だったんだから、と言われたけれど、それは当たり前じゃないとわたしは思う。絶対に。

 


毎年、この季節になると、悲しみのかたちが変わっていることに気づく。

大人になるにつれて、人の気持ちを想像することができるようになった。
そのときは見えなかった周りの人たちがどんな気持ちだったか。父は、母は、兄たちは。他にもたくさんいる。その人たちの気持ちはその人たちにしかわからないけれど、想像することができるくらいに、わたし自身が大人になっている。

そして、会えなくなった人の気持ちを想像する。考えてもわからない。わからないけど、考える。会いたいなと思う。


考えていると心がぐらんぐらん揺れる。
揺れた心をそのままにして自転車を漕ぐ。ぬるい風が吹く。遠くを見つめて長い坂道を登る。

想いの深さをはかる方法なんてこの世にはない。
人からどう映っていても、その心の奥は誰にも見えない。
だから、わたしの悲しみは、苦しみは、わたしだけのものだ。


ちょっと今年は鮮明に色々と思い出すことが多くて、初めて言葉にしてみた。
こうやって文章を書くと、なんとなくまとめたいとかいい文章にしたいかと思ってしまって、自分の言葉じゃない言葉を使ってしまい、嘘っぽくなってしまうこともある。
だから、こういう自分の中のなかなかセンシティブな話を書くのは本当に難しいと思う。

それでも今年は、こうやって自分が思ったことを覚えておきたいなと思った。それだけだ。この場所に感謝している。



今日は歌じゃなくて、大好きなドラマ「大豆田とわ子と3人の元夫」の中に出てくるセリフをここに置きたい。
亡くなった親友の話をするとわ子に、小鳥遊さんがかけた言葉。

人生って小説や映画じゃないもん。
幸せな結末も悲しい結末も
やり残したこともない。
あるのはその人が
どういう人だったかということだけです。

この言葉が大好きだ。さっぱりと、ゆっくりとこの言葉をとわ子にかける小鳥遊さん。敵でも味方でもない。ていうか、そういうことを考えていない。そういう小鳥遊さんの言葉が、これから先もわたしの中にある。一緒に生きていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?