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『ルイ13世の請願』ドミニク・アングル

 さて、今回のこの絵はアングルがパリに帰り咲いた作品として有名です。アングルはそれまでずっとイタリアに拠点を移して活動をしていました。その一方でサロンには毎年絵を送っています。
 イタリアにいたおかげでナポレオンの政変に巻き込まれなかったとも言えます。ある意味遅咲きであるアングルですが、今回のこの絵のおかげで評価を得てパリに戻ってくるのです。
 というわけで、アングル愛の私が燃えて記事を書こうと思います!

『ルイ13世の請願』

では今回の絵を見ていきましょう。

『ルイ13世の誓願』 ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル、1820年-1824年
教会に置く絵だからこのサイズの絵なんですね。祭壇画というものですね。いや、マリアさまのお顔がラファエロ。。神々しいですね。。

さて、そもそもタイトルのルイ13世の請願ってなんぞやというところからみていきたいと思います。

 長い間子供に恵まれなかった国王ルイ13世は1638年、聖母マリアに跡継ぎの子が生まれたらフランスを聖母に捧げ、パリのノートルダム大聖堂に新しい祭壇と彫刻を寄進するという誓いを立てます。ルイ13世の妻である王妃アンヌ・ドートリッシュは24年の結婚生活の間に4度の流産を経験していましたが、ルイ13世の子をまだ一度も出産していませんでした。
 しかし誓願を立てるとアンヌはその年の9月に後の太陽王ルイ14世を無事に出産し、またその2年後には第2王子を出産します。
 ルイ14世の誕生に歓喜した国王はフランスを聖母マリアに捧げ、フィリップ・ド・シャンパーニュに命じて『ルイ13世の誓願』を描かせます。

『ルイ13世の請願』フィリップ・ド・シャンパーニュ、1638年
この絵を恐らくアングルも知っていたと思うのですが、イタリアにいたアングルは参考にできなかったようです。こちらはキリストが成人していますね。

1820年フランス政府の内務省はアングルに故郷モントーバンのノートルダム大聖堂祭壇画を発注します。主題は『フランス王国を昇天する聖母の庇護のもとへ捧げるルイ13世の誓願』と定められていました。
フランスでは1814年にナポレオンが没落しルイ18世が王政復古を果たしました。まだ政権が不安定だったためこのような絵を政府が発注したと考えられます。この時王座にいたルイ18世はルイ13世の6世代後の王になりますので正統性も同時に確立したかったのでしょう。

 当初、アングルは主題から政治的要素であるルイ13世を除き、この作品を純粋な宗教画『聖母被昇天』として描くことを望んでいました。その理由の1つとして、アングルはルイ13世を描くための資料がフィレンツェに欠如していたことを挙げています。
 しかし主題の変更は聞き届けられなかったため、アングルはウフィツィ美術館にフランス・プリュービスが描いたアンリ4世(ルイ13世の父)の肖像画を発見し、それを用いて描くことでこの問題を解決しました。

『フランス国王アンリ4世の肖像』フランス・プリュービス、1613年
アングルが参考にしたといわれている絵です。確かに身に着けているマントなど参考部分がわかります。王冠も描かれてますね。

アングルはこの絵を4年かけて制作しています。それだけ悩み描かれた作品であっても、それまであまり評価をされてこなかったアングルはこの絵が評価されることは予想していなかったようです。

フォリーニョの聖母

ちなみにこの絵はラファエロの絵を参考にして描かれています。

『フォリーニョの聖母』ラファエロ・サンツィオ、1511年
確かに似ているような、違うような・・・。

 この絵はもともとイタリアのフォリーニョにあるサンタ・マリア・イン・アラコエリ教会の大祭壇画として描かれたもので、右下で祈っているシジスモンド・デ・コンティ(赤いマントの人)が寄進した絵です。
コンティはラファエロのパトロンである教皇ユリウス2世の秘書であったので、そのつながりでラファエロに絵の依頼がきたのでしょう。

 このフォリーニョはコンティの郷里なのですが、フォリーニョの町が雷や火の玉(隕石だといわれています。)に襲われたのにもかかわらず無事であったことを神に感謝するため寄進したのがこの絵画でした。
コンテはこの絵の完成の前に亡くなってしまい、サンタ・マリア・イン・アラチェリ教会に葬られます。この絵も同様に教会で保管されていました。

 1797年、イタリアに進行したナポレオン軍によってフランスに持ち去られたこの絵は、1816年ウィーン会議によってイタリアに返還され現在はバチカンに所蔵されています。

 そう、この絵はフランスに来ているんです。だからサロンの人たちはこの絵をもちろん知っているわけなんです。そしてアングルがこの絵を基に今回の絵を描いたことにも気づくわけなのです。ふ、深い。。

ベリー公爵

 1824年にルイ18世が亡くなると弟のシャルル10世が即位しますがこのシャルル10世の次男がベリー公爵です。(余談ですが、シャルル10世の長男はマリーアントワネットの娘と結婚しています)

『シャルル・フェルディナン・ダルトワ』アンリ・ピエール・ダンルー
ダンルーはフランス革命の際にイギリスに亡命し、そのころイギリスで流行していた肖像画に影響を受けたといわれています。当時イギリスで流行していた肖像画は実際よりよく見える描き方だったとか・・。この絵もそうなのでしょうか。

 ベリー公は1820年にオペラ座から出てくるところで暗殺されます。先に帰る妻であるマリー・カロリーヌを見送っていた時のことでした。マリーは馬車から飛び出し、夫を抱きしめます。ベリー公は、すすり泣くマリーに、「お腹の子の為に、おちついて」と言い、人々は初めて、彼女が妊娠していたことを知ったといわれています。
 この時の子が、アンリ・ダルトワ。父が死んでから産まれた彼は、「奇跡の子」と呼ばれました。

 ベリー公は1820年2月に亡くなり同年9月にはアンリが生まれています。で、アングルはこの1820年にフランス政府から絵の依頼を受けています。恐らくこの「奇跡の子」を絵に追加するよう政府から働きかけがあったと考えられます。

聖母被昇天

さて、ここでもう一度今回の絵に戻ってみましょう。

聖母に抱かれたイエスは「奇跡の子」であり、アンリ・ダルトワを表していると恐らく当時は皆受け取った事でしょう。ちなみにアンリ・ダルトワは王位に近い後継者であったにも関わらずチャンスを逃して結局王位につけなかったのです・・・。

 そもそも、アングルは聖母被昇天の絵を描こうとしていました。フィリップ・ド・シャンパーニュの『ルイ13世の誓願』でもマリアの傍らにいるのは成人したイエスです。マリアが昇天する時イエスが赤子であるのはおかしいわけですよね。(先にイエスが昇天しているわけですし…)
 また、政府からは『フランス王国を昇天する聖母の庇護のもとへ捧げるルイ13世の誓願』の絵を描くよう依頼されていますから、本来であれば聖母被昇天の絵はイエスが存在していないわけです。

『聖母被昇天』ピーテル・パウル・ルーベンス、1616年 - 1618年
ルーベンスの絵にもイエスはいないわけです。イエスは自力で昇天したけれどもマリアは聖霊の力によって昇天するので「被昇天」というわけなのです。

 要するにアングルは絵の注文者に忠実に描いているんです。
イタリアにいるからフランス王であるルイ13世の絵を描くのが難しい、聖母被昇天を描けと言われたのに奇跡の子を入れろとか…色々アングル的にはこの絵を描くに当たって思ったことがあったと思うのです。。
でも、アングルはちゃんと言われた要求を全部飲んで描いているんです。この場合注文者は国家となりますからそれは仕方ないことなのかもしれませんが。。
だからこそ、この絵はサロンで熱烈に歓迎されたのではないのかなと考えられます。

なぜならこの1824年のサロンに出品されたのはドラクロアのキオス島の惨殺であったからです。。

次回は1824年のサロンについて記事にしたいと思います。

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