その⑥


たしかその④で無手というのを書いたが、これについて考察してみる。

まず、太極拳で言われる纏絲勁、回転運動、これは根本的な人間の人体構造を明確に型に表してあり、この連動する動きを習得することで動きが格段に変わってくるし、強く浸透する、そして身体に負荷のない動きにも繋がっていく。

だけれども、その回転(纏絲勁)を今回はナンバ歩きの際に意識しないようにした。

というより、自分が意識して纏絲勁を生じさせるプロセス、これを封印した、といった表現の方が的確かもしれない。

それ以前は、まず、型をやる時に、腰、背中、足、腕などの回転を身体全体をゼンマイの歯車のように組み合わせて、動きの理(ことわり)を身につけていくというのが鉄則だと肝に銘じていた。それ故に、どうしても頭(意識、思考)が優先して回転による運動を生み出そう、と無意識に頑張ってしまうのではないか努力しててしまうのではないか?

ここにパラドックス的な、必ず守るべき原則を、あるタイミングで捨て去る必要がある、守らないといけないがそれを守り過ぎてはいけない、みたいなテーマが生じているのが面白い。

もちろん、型を正しく行うためには、意識して理、原則にのっとって行わなければならない。

しかし、数日前にナンバ歩きの際に、逆雲手や雲手を試している、と書いたが、どうしてもそこに「こういうふうに動かそう」という意識が優先してしまい、違和感に繋がってしまう。

そこで、無手では、その意識を極力なくしてみた。

なぜなら、腰と大腿がそもそも回転運動により前進または後退する。その時に身体の内部には既に連動した回転運動が生じているのであり、それは手にももちろん生じている。

この、生じたままの状態を自然なまま保つべきなのではないか?

ここで余計な回転を意識して腕や手指など末端に加えることで、身体本来の持つ自然な体勢、システムが微妙ながら崩れてしまっているのではないか、とナンバ歩きを繰り返すうちに気づいた。

要は、今まで長年学んできた内旋や外旋の力、全身に行き渡るゼンマイのような作用を感じ取るだけで良いのだ。

纏絲勁を学んできた手前、自分の手腕を含め、どこがどう回転や伸縮運動をしているのかは感覚的に把握できる。そこに余計な作為を付け加えない。

何万歩も歩きながらフトそう思い、意識して腕を余計に回したり動かすことをやめてみた。

なので、極論から言うと、纏絲勁をやめる、回転を意識するのをやめる、と言っても、身体全身の纏絲は感じられるし、その生まれたままの力に身を委ねる感じだ。

無手についてはまだまだ発見がありそうだが、足も同様だと思う。

これについては黒田鉄山氏が「無足の法」というのを解いているし、太極拳などでも「足で蹴って歩かない、回転運動の結果足が前に出る」などもよく言われる。要は、蹴ったりして身体を動かさない、と言う意味の教えだと思う。まさに「無足」の表現だと思うが、いろんな武術や能などの芸能についてもこれと共通する記述は多くあり広く知られていると思うので、ここでの言及は控えたい。

ただ、全身を通す「無」の感覚、これが大切な気がしている。

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