イマヌエル・カント『純粋理性批判』第一篇概念の分析論 第二章第二節純粋悟性概念の超越論的演繹§26, 27 B159-16


・§26 純粋悟性概念に、一般に可能な経験的使用に関する超越論的演繹
 
§20:複数の表象(直観)は統覚の根源的統一という条件の下で(§17)、客観的に結合されるが、この結合こそ判断の論理的機能である(§19)。そして与えられた直観の多様なものが判断する機能にかんして規定されている(=形象的総合の下に置かれている)かぎりにおいて、カテゴリーこそがこの論理的機能である。したがって直観における多様なものはカテゴリーの下に置かれる。ここで§20の章題「いっさいの感性的直観はカテゴリーのもとに立ち、カテゴリーとは直観の多様なものがそのもとでの一つの意識のうちに総括されうる条件である」が示された。
§21:統覚の結合作用のひとつである悟性の総合によって、直観における多様はそれが到来するところのものである自己意識の必然的統一に属する。この悟性の総合は──当然悟性は概念の次元であることから──カテゴリー(純粋悟性概念)を通じて生起する。経験的直観が純粋直観(時間・空間)のもとにもたらされなければならないのと同様に、経験的な意識は純粋な意識のもとに、その経験的意識において意識されるものはある純粋な概念のもとにある必要がある。このことから、カテゴリーの必然性が演繹される。ただし、なぜカテゴリーがこのような数でこのような種類なのかというしだいは知りえない。それは、直観の形式がなぜ時間と空間だけなのかを証明できないのと同様である。

・§20-21は、端的にいえば客観的統一に概念=悟性次元での結合が不可欠であることから、そのような結合に関与する概念、すなわちカテゴリーがア・プリオリであるということを主張している。これが§26冒頭で言及される「超越論的演繹」である(B159)。

「覚知(Apprehension, 把捉)」はA版で呈示される三重の総合(覚知、再生、再認)のひとつであり、直観の統一をもたらすものである(A版における「覚知」の位置については力不足であるためここで述べることはできない)。B版においては、超越論的感性論・第二節時間について§8超越論的感性論に対する一般的註解(B68)で初めて「覚知」が登場している(この§8はB版でⅡ以降が加筆されており、とりわけⅡ・Ⅲは超越論的演繹論の部分的な先取りになっていることは注目に値する)。B68では、自己を意識する能力はこころのうちにあるものを覚知するはずであるならば、その能力がこころを触発し、自分自身の直観を産出することによってであり、この直観は時間という形式に従うと述べられている。ここで「内的直観にあっては、外官の表象が本来の素材をな(B67)」すのであるから、自己直観は、外的表象が時間の中に置きいれられることによって、こころが内から触発され、得られる。ところで、演繹論§24では、継起という概念や時間の意識が、「線を引いてみる」という外的な形象を介して得られるほかないということが語られていた。曰く、「内的知覚に対して時間の長さや時点を規定するためには、外的な事物が私たちに対して呈示する変化するものから、その規定を手に入れるほかはない(B156)」。そして、この「内官が規定されることを意識」することは「形象的総合と名づけた超越論的作用」によって可能になっている(B154)。したがってB68で言及されたこころを触発し自己についての直観を産出する能力とは「形象的総合」ということになるだろう。以上の議論を総括しよう。

(1)自己という単一の表象から自己活動によって自己についての直観を産むことはできない(そのような自発性=知的能力による直観は知的直観であり人間知性には不可能)ので、自己直観を得るためには、多様なものを内的に知覚する必要がある(B68)
(2)この直観の多様を内官において知覚するためには、悟性が直観に与える総合によって、内官の時間的規定についての意識が得られなければならない。この悟性の内官に対する働きかけが形象的総合である(B154)
(3)形象的総合(産出的構想力)によって直観が内官によって捉えられ、自己直観が与えられる。この自己直観を把握する作用として、形象的総合に「先立たれて」くるのが覚知の総合である。

覚知の総合は「経験的直観における多様なものの総括」であり、経験的直観についての意識(知覚)を可能にする条件である(B160)。したがって覚知の総合は、形象的総合と知的結合の間において、直観から知覚への移行を果たすものである。

・ここで問題となるのは、覚知の総合と形象的総合の区別である。この区別は、空間と時間を直観としてみるか、形式としてみるかにおいて生じる。まず、空間と時間は感性的直観のアプリオリな形式として覚知の総合の条件となる。たほう、空間と時間は同時にひとつの直観(純粋直観)でもあるが、この直観は多様なものの統一に規定されて与えられる(B160)。このことによって、時間・空間という形式だけでなく、われわれに現象するすべての表象を規定する結合も、覚知の総合に先立つ条件として直観と同時に与えられる(B161)。このことは原註において次のように説明されている。空間は、幾何学においてそうであるように対象として表象されえるが、空間がそのように表象されるときには、多様をひとつの表象へ総括する作用が働いている(B160)。したがって、「形式的な直観は表象の統一を与えることになる」。この統一は「いっさいの概念に先立」つ直観の次元での働きであり、かつ「総合」という自発的能力を前提とする、「悟性が感性を規定する」ことであるから、形象的総合とみなされてよい。子の形象的総合が時間と空間を直観としてもたらすことによって、時間と空間にしたがった多様の結合が可能になっている。時間と空間はまず、感官とのみ関係するような感性の形式として、直観に先立って直観の多様なものを規定するが、そうした多様なものを時間と空間の内に置きいれる形象的総合の活動は、時間と空間の直観の産出にあたって表象の結合を行っており、同様にこの結合が他の直観にかんしても行われることで、あらゆる時間・空間内の表象が従うべき結合がアプリオリに与えられることになる。こうした二段階の条件付けが、概念以前の直観の受容において、(先立ってかつ同時に)働いていると考えることができる。

・この形象的総合は、悟性の能力として、カテゴリーにしたがった結合を感性的直観に適用したものである。したがって、知覚以前の総合の段階さえすでにカテゴリーに規定されているのであり、経験の対象はつねにアプリオリにカテゴリーに適合した形で与えられる(B161)

・形象的総合がカテゴリーによる結合能力であるしだいは、カテゴリーと時間・空間の対応に見ることができる。というのも、形象的総合がカテゴリーの感性的直観への適用である以上は、そうした感性的条件を捨象すれば、カテゴリーそのものが出てくるからである。外的直観(一軒の家)を知覚へと形成するとき、構想力による「空間と外的な感性的直観一般の必然的統一」が根底にあり、それに従うことで空間における対象の知覚が可能になっているが、この総合的統一から空間という感性的形式を捨象すると、この統一は同質的なものの総合である量のカテゴリーとなる(B162)。同様に、時間的に継起してゆく内的直観の現象(水の凍結)の知覚においては、同じものの異なる状態(液体と固体)が、時間における多様の必然的な総合的統一の表象の下で理解している。この構想力による統一によって、時間の関係に継起という規定が与えられることができる。この総合的統一から時間という形式を捨象すると、この統一は原因のカテゴリーとなる(B163)。このように形象的総合は、カテゴリーによる結合能力を感性に対し感性の形式に従って適用することで行われており、このような総合が必然的なものとして知覚の根底に存していることによって、直観は、空間の面においては量の概念に、時間の面においては因果関係の概念にアプリオリに適合して与えられる。

・カテゴリーは現象の総括として自然にア・プリオリな法則を指定する概念である。この法則は、経験論的に自然から得られるものではない。また客体に内在した実在的な法則でもない。にもかかわらずこのような法則に現象が必然的に従うのは、この法則が主観と現象との関係にあってのみ現実存在するからである。物自体そのものが属するような合法則性であるならば、悟性のはたらきとは無関係に、合法則性は物自体のうちにあると考えられる。しかし、われわれが得ることのできる現象はたんに事物についての表象であり、事物の本性を得ることはわれわれにはできない。表象としての現象は結合のもとで与えられることができるが、この結合は主観の結合の能力が指定しているのである。

・可能な知覚の一切は覚知の総合に依存し、さらに、経験的な総合である覚知の総合は超越論的総合に依存し、したがってカテゴリーに依存する。以上のことによって、経験的意識に与えられうるあらゆる可能な現象は、カテゴリーによる結合(法則指定)の下にあり、カテゴリーこそが自然の必然的合法則性の根源的根拠であるしだいが明らかになる。しかし、このようなすべての自然に対する一般的法則を超えて、特殊な法則を導出するためには、経験的な規定が必要になる。あらゆる経験一般にアプリオリに適合する法則として、カテゴリーはそのような特殊な法則もその下に含んでいるが、そのような特殊な法則は経験的に規定された現象にかかわるものであるから、カテゴリーのみから導出されえるものではない(B165)

・§27 悟性概念のこの演繹の成果

・演繹論ではここまで、客観的統一に統覚の根源的統一が要請され(§18)、可能な知覚の根底にカテゴリーがあることが確認された(§26)。また前章§10で示されている通り、構想力による表象(直観)の純粋総合を概念(思考)へともたらすのは、必然的な総合の表象としての純粋悟性概念、すなわちカテゴリーである(B104)。したがって、「わたしたちは、カテゴリーによるのでなければ、いかなる対象も思考することができない」。しかし一方で認識の成立には概念と直観の双方を要するため、カテゴリーに対応した直観も認識には必要である(B165)。したがって、感性的直観によって対象が与えられるような経験的な認識しかわれわれには可能ではない。であるから、「ひたすら可能な経験の対象にかんするもの以外には、私たちにとっていかなるア・プリオリな認識も可能ではない」(B166)。

・ただし、「可能な経験の対象にかんする」という制限がつくのは認識に関して限りであって、思考についてはこの限りではない。認識は直観を伴う思考であって、この直観は経験的にしか与えられえない。しかし、思考する対象、すなわち客観を規定するときにのみ直観が必要とされるのであり、客観を規定しなくてもよい場合には当然直観を欠いた客観についての思考というものがありうる。客観についての思考は、それが客観を規定するのならば認識であり、客観の規定に向かわないのであれば主観の意欲を規定する理性使用へ有用な帰結をもたらす(B166)。『人倫の形而上学の基礎づけ』においては、実践理性が主観の意志を規定するものとされる。また、道徳性の概念の普遍性にしたがって定言命法が導出されるが、この命法は意図・目的・行為の対象とは無関係に客観的に必然的な行為を指示する原理であり、したがってどのような客観であるかとは無関係・無差別・無関心的であるという点において、「客観を規定しないような理性使用」であるといえる。したがって、B166の原注における理性使用の区別は、思弁理性と実践理性の区別を提示しており、客観を規定しないような「客観についての思考」は実質的に後の道徳哲学の著作における無関心的・普遍的な意志規定の原理の導出の可能性を先取りしているといえる。

・認識は経験の対象に向けられたものに限られるが、認識のうちにはアプリオリな道具立てとして、純粋直観と純粋悟性概念という要素が与えられている。ところで、経験と対象の概念の必然的な一致は、「経験が概念を可能にする」と考えるか、「概念が経験を可能にする」と考えるほか説明できない。しかし前者はカテゴリーのアプリオリ性によって否定される(B166)。よって「概念が経験を可能にする」と考えるべきである。したがってカテゴリーは、悟性の水準における経験一般の可能性の根拠を有していることになる。カテゴリーが具体的にどのように経験を可能にするのか、どのような原則を与えられるかにいては、次篇(原則の分析論)で述べられることになる(B167)。

・しかし、カテゴリーを、「主観の自発的能力によってみずから考え出されたアプリオリな第一原理」と考えるのでも、「経験から汲み取られたもの」と考えるのもなく、「われわれの現実存在と同時に造物主によってわれわれに植え付けられた素質」であると考える、合理論的立場がある。この立場では、自然の摂理とこの主観的素質が一致するように調整されているということからカテゴリーの一致の問題を解決しようとするが、そのようなばあいカテゴリーには必然性がかけることになる。そのような立場では、例えば原因の概念について、「わたした地はこの表象を結果と原因とが結合したものとして以外には思考しえないしかたで調整されている」と語りうるのみであり、それにしたがった洞察は恣意的な主観的必然性ならまだしも、客観的妥当性を有することができないからである(B168)。(一方で批判哲学の立場は、カテゴリーの演繹可能性をこの章で証明したことにより、たんに現にじっさいに経験がカテゴリーに従っているというだけではないその必然性を示せたということになるだろう)

演繹論における経験の条件のまとめ

①感性の形式(感性・直観)→②形象的総合(悟性・直観)→③覚知の総合→④知的結合(悟性・概念)

①感性の形式は、受動的作用として構想力による結合より前に直観に適用されている
②悟性能力が直観(感性)の次元に作用し、概念に先行して、カテゴリーにしたがって直観を結合する。この結合は①によって感性の形式に従って行われる。このとき、感性の形式でもある時間と空間が、直観として、一つの表象として結合される。このことによって感官の規定がおこなわれ、時間と空間において表象を把握することが可能になる。また、カテゴリーにあらかじめ対応した直観として多様が結合する
③形象的総合によって、時間・空間において捉えられた直観を知覚に取り込む作用を果たす
④形象的総合によってカテゴリーにあらかじめ対応した直観を、概念の次元で結合にもたらす


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