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イマヌエル・カント『純粋理性批判』第一篇概念の分析論 第二章第二節純粋悟性概念の超越論的演繹§26, 27 B159-16

・§26 純粋悟性概念に、一般に可能な経験的使用に関する超越論的演繹   §20:複数の表象(直観)は統覚の根源的統一という条件の下で(§17)、客観的に結合されるが、この結合こそ判断の論理的機能である(§19)。そして与えられた直観の多様なものが判断する機能にかんして規定されている(=形象的総合の下に置かれている)かぎりにおいて、カテゴリーこそがこの論理的機能である。したがって直観における多様なものはカテゴリーの下に置かれる。ここで§20の章題「いっさいの感性的直観はカテゴ

    • 2022 秋 日記/詩 抜粋

      (前略) 言語的出力は入力と場の適切性に応じた引用という形で思考を超えて先走り、それに見合った感情が遅れてやって来る ──感情が無限後退可能なのは、原-感情という無限遠の消失点へ向かう努力がいつまでも完結しないからではなく、言葉というものが無限に連想可能であり、それらすべてに応じてまた別の感情が連想されてしまうからに過ぎない われわれの心は、連想によって独走を続ける言葉の後に、後置修飾的に到来するRaisonに過ぎない よって、自由意志は否定され、責任主体は消失する。

      • メモ

        ヴェルフリン『美術史の基本概念』 線的様式・絵画的様式の対立 線的様式から絵画的様式への移行(17C)─切断 アレント『人間の条件』 観想(speculation)と観察(observation) 観察→カメラ・オブスクラ→一点への限定(遠近法的図式) さかえきよし 反省的判断力:ライプニッツ 摂理論・自己の反省としての客体の理論 「主観としての自然」 中性の視覚嫌悪・逆遠近法→視覚性の中での視覚性に対する抵抗、近代視覚中心主義と非連続ではない イコン・神の神秘性を侵

        • きょうも全線的な「自殺報道」が駅の電光掲示板に流れる。

        イマヌエル・カント『純粋理性批判』第一篇概念の分析論 第二章第二節純粋悟性概念の超越論的演繹§26, 27 B159-16

          視ることの「西洋中心主義」

          これから

          視ることの「西洋中心主義」

          「「自閉症の脱構築者」としてのデリダ」の可能性についての草稿

          1. ヤニス・スタヴラカキスは、政治的な調和の不可能性の根底に、ラカン理論における疎外された主体を見る。自我は初めから分裂している。想像的な次元においては自我は他我として見られ、象徴的秩序の中に置き移された主体は、自らを代理する象徴物と自我との不一致の間に欠如を抱えてしまう。スタヴラカキスは、象徴的秩序の導入が常に不完全であり、現実界に通じた穴を抱えていることを、政治が政治的なものを覆いつくせないことに重ねてみとる。象徴界へ参入し、言語・記号的な次元で他者と接するようになった

          「「自閉症の脱構築者」としてのデリダ」の可能性についての草稿

          来たるべき民主主義とジャック・デリダ(上)

          来たるべき民主主義とジャック・デリダ 上有住 れい         1. はじめに  来たるべき《à-venir》。それは未来(avenir)であり、なにものかが来たる(-à venir, -to come)ということ、来たるべきなにものかがあるということ(il y a quelque chose à venir)であり、そして、その来たるべきもの(chose-à-venir)の名である。デリダの脱構築の思想は、とくに後期において、脱構築を可能にする脱構築不可能なもの、

          来たるべき民主主義とジャック・デリダ(上)

          メモ 「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算 ジャック・デリダ

                              明日起きたら文章整えます はじめに このメモは『「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算』と題された、ジャック・デリダとジャン=リュック・ナンシーの対話の記録の日本語訳(訳者・鵜飼哲)について私が書き残したものである。  参照した文章は『主体の後に誰が来るのか?』(現代企画室・1996年)に掲載されたものである。  このデリダとナンシーの対話が初めて掲載されたのは、上述の書籍に従えば、おそらく1988年10月刊行の"Topoi

          メモ 「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算 ジャック・デリダ

          Legitimate Conceptuals

          Legitimate Conceptuals

          ある映画についてのおそらく誤っているであろう感想

          今までで一番重い映画だったかも知れない。 白黒という温度感じゃなきゃ感想はまた違っていただろう。 死が何度も繰り返された。 ドラマチックではなかった。 寧ろドラマの無い死ばかりがフラッシュのように通り過ぎていった。 死んだのはユダヤ人だけでは無い。 ナチス将校も死んだ。関係の無いウクライナ人も死んだ。 ポーランド人も死んだ。 ロシア人も死んだ。 どちらにも感情移入させずに、 唐突にナチス戦犯の絞首刑が実行される。 穏やかだった。 小さく藻掻くナチス将校の足元のトラックが一瞬で

          ある映画についてのおそらく誤っているであろう感想

          場所  〈灰〉と〈ポシェ〉を踏まえて

          ポシェ(poché)。残余《Le reste》。 Voidではなく存在する空間。にもかかわらず無用の空間。 不可欠な空虚。有意義な無意味。 最も基礎的な意味へ立ち返れば、ポシェとは構造上不可欠な、何かで充満した(つまりアクセス不能な)ある種の非─空間を指すが、SANAAの提示する《虚のポシェ》の概念と21世紀美術館の実践は、ポシェに空間的広がりを与えたといえる。また、ある建物においては内外の間にある分画的役割を持った存在であるが、都市を一つの構造と考えた時に都市におけるポシェ

          場所  〈灰〉と〈ポシェ〉を踏まえて