メモ 「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算 ジャック・デリダ

                    明日起きたら文章整えます

はじめに

 このメモは『「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算』と題された、ジャック・デリダとジャン=リュック・ナンシーの対話の記録の日本語訳(訳者・鵜飼哲)について私が書き残したものである。
 参照した文章は『主体の後に誰が来るのか?』(現代企画室・1996年)に掲載されたものである。
 このデリダとナンシーの対話が初めて掲載されたのは、上述の書籍に従えば、おそらく1988年10月刊行の"Topoi"誌の特集号である。対話が行われた具体的時期を特定するのは難しいが、少なくともデリダが1989年に『法の力』の口頭発表を行い、その「転回」を(それが単なる誤解に過ぎなかったにせよ)彼の聴衆に印象付けるより前のことであるのは確実だろう。注目すべきは、この短い文章においてデリダがその後の彼の思想の萌芽を次々と見せているところである。なかでも、ナンシーからの「脱構築がアウシュヴィッツにどう応答するのか」という問いに対するデリダの応答には、『法の力』の読者であれば責任の(計算)不可能性や決断への切迫といった構図を容易に見て取ることができるだろう。「脱構築に対する倫理的な疑義」についてはその他の箇所でも言及があり、すでにデリダはその疑惑の清算を考えていたことが窺える。
 またこの対談で中心的に取り扱われ、対談のタイトルにも関係する「供犠の構造」という主題は、後の『信と知』でデリダが論じた「共に─義務として─自己─免疫作用をするもの」の共同体や、生贄と補償作用、死の後の生の超出としての生き-延び(sur-vieといった主題との関係を見出すことができるだろう。他にも、友愛や〈頭〉、あるいは贈与、そして無限の歓待といった主題に他著作との関連を見出せるかもしれない。しかし無論、語彙的な表面上の繋がりはあまり本質的ではない。対話自体の内容は、ハイデガーとレヴィナスにおける主体性の構成に対する批判から、主体性を理性的存在者たる人間存在にのみ限定してきた男根ロゴス中心的構造の批判へと移る。したがってこの文章はデリダによる動物論の断片でもあるのだ。後のセミネール『獣と主権者(La bête et le souverain)』は”La……Le.”というふたつの性の定冠詞の反復から始まる。獣(La bête)に割り当てられているのは女性(La)であり、主権者(le souverain)に割り当てられているのは男性(Le)である。人間と動物の独断論的区別は、理性的存在者=言語能力=応答する力能=言葉によって他者を包摂し内化する「食べる」存在者を特権的に扱い、女性性や同性愛を抑圧してきた、西洋形而上学における階層秩序のシステムの中に組み込まれているのである。動物について語ることは、あるいは人間以外の存在者の地位について語ることは、同じく主体の形而上学の中で犠牲になってきた=否認されてきたものたちについて語ることを余儀なくされる。
 「人間を殺してはならない、しかし動物を死なせることは殺害ではない」。このような否認の形によって主体は暴力的に制定される。主体=主語となりうる存在が排除によって定められる。しかし、ハイデガーが「動物は世界貧乏的である」というときの動物の悲しみはむしろ、世界への、真理への、死への直接の通路を断たれた人間の悲しみではないか。レヴィナスが「汝殺すなかれ」という命法をいうとき、その汝はどうして人間でしかありえないのか。動物と人間の境界が唯一特権的な境界であるのはなぜか?
 しかし問題は、われわれは食べなければならないのだ。いずれにせよ。

要約

今日書く~

  • 〈呼びかけ〉

    • 主体化の契機。主体(主観)に先立ち、また主客の生成に先立つため、どこでもない場所から到来する

    • 人間あるいは神の「主体」ではない〈呼びかけ〉の起源が、責任=応答可能性を制定する

    • この責任=応答可能性(responsabilite)はあらゆる(道徳的、法律的、政治的)責任の、一切の定言的命法の根本に見出される

      • アルチュセールの政治的主体化、ラカンの鏡像へと幼児を誘う大他者の呼びかけ、レヴィナス、アブラハム一神教的

  • 問い、主体=自己についての問い

    • 行為の主語として自己を発見する問い、自己への問い

      • デカルトやハイデガーにおける主体=人間存在=現存在の契機

  • 自己への現前

    • (類)自己への同一性、措定性、固有性、人格性、自我、意識、意志、志向性、自由、人間性

    • sujetの本質的な述語

    • 現前する存在者の権威

  • 現存在、被投存在

    • 主体性や客体性よりも根源的なのは被投性

    • 被投性は伝統的受動性やGegenstandよりも根源的な受動性

    • 〈投げ出す/投げ出される〉という〈基底材[subjectile]〉の経験

    • 誕生の瞬間から、恐らくはそれ以前から、被投存在は再自己固有化する。あるいはむしろ、まだ主体の形態でも企投の形態でもないような諸形態のうちで脱─自己固有化する

      • 受動的に投げ出されているそれは主体性を獲得しておらず、主体の形態でも自らを投げ込むという企投の形態でもない

    • 被投存在の誤配(運迷)[destinerrance]から出発すると、問題は常に痕跡であり、しかしまた反復(反覆)可能性である。このことは主体形式のうちで脱─自己固有化が絶対的に安定化することはないということを意味する

      • 反覆可能性=再自己固有化に伴う脱─自己固有化

    • 非安定(non-stable)にとどまる、相対的安定化

    • 脱─自己固有化はもはや自己を閉ざさない、それは決して全体化しない。脱─自己固有化はひとつの限界(閉鎖性─否定性)ではない。他者への関係の還元不可能性を前提としている。

    • 他者はあらゆる主体化に、喪の作業=労働の取入れ=理想化にも抵抗する

    • [JLN]閉じない限りで、閉じないにもかかわらず(受動性の中で、受動性にもかかわらず)単独なものの次元があるのではないか?

    • 各私性(jemeinigkeit)という現存在の構造における単独性=代替不可能性=〈置換されざるもの〉がある

    • 共存在[Mitsein]における単独性ないし還元不可能な孤独は個人[inidividu]のそれではない。個人の単独性は常に自我(エゴ)の方へ、有機的ないし原子的分割不能性[indivisibilite]の方へと合図をする危険がある

    • 現存在の〈現〉は人間的主体性のどんなカテゴリーにも還元不可能な仕方で自らを単独化する

    • 現存在の被投性(被投存在)によって、〈呼びかけ〉[Ruf]へと投げ出され、引き渡され、晒される或る仕方をも記述される

  • 責任と主体

    • 責任に適合的であるような(主体を含め)概念はありえない

    • 責任はある本質的な〈尺度を外れたもの〉を携えており、根拠律にも計量可能性にも合致しない

    • 一方、主体は、政治的なもの(民主主義の原稿の概念も含めて)においても、法律的なものにおいても、道徳においても、計算可能性の原理でもある

    • 計算は必要だが、〈計算不可能なもの〉や〈決定不可能なもの〉の試練を横断しないような責任や倫理=政治的決定などというものはない

      • さもなければ計算、プログラム、因果関係やせいぜい「仮言的命法」しか残らなくなる

  • 主体の閉鎖性、現存在

    • 主体の概念にその独断論的効力を付与しているのは、むしろ、自己への同一性の(飽和した、あるいは縫合された)閉鎖性、自己への同一化

    • 現存在の概念にも類似の事態

    • カント─超越論的主体を問い直し分配しなおすべく多くの概念を与えてくれたハイデガー─現存在は結局のところ超越論的主体とに対置を占めている

    • ハイデガー:「問い」において、無限定的な「誰が」にとっての〈主体─となる〉可能性を、現存在となる可能性を、世界に投げ出された現存在となる可能性を人間だけに認めている(これが人間の定義でもある)

    • 「生物一般」と呼ばれるものといった、あらゆるほかの形態の自己への関係との対立の中で現存在=人間存在が語られる

    • 問いの力能=人間の条件

    • 「生物一般」という曖昧な概念を始めとする人間とこれらの対立を脱構築しない限り、主体の、現存在の名の下に、不当=非合法的に(illégitimement)限定された同一性が再構成される(しかしある種の法の名において)

    • 人が「誰が?」という問いかけを中断するのは、ある種の法律(政治的計算)を裁可し固定化する(arrêter)ため

    • 脱構築は別の法へ訴える、あるいは別の法、より要求の厳しく、別様に、より多くの責任を求める法に呼びかけられるに任せる

  • 主体の脱構築

    • 問題は、種々の存在者(人間、動物、植物、石......)についての非常に多様な言説に、同じ「もの」(存在一般?)についての単一的なもう一つの言説を対立させることではなく、これまで「主体」について語ることを可能ならしめてきた概念的機械仕掛けの総体を、終わりなく、その諸々の意義=利害に注意しつつ分析すること

      • 存在の個別複数性(現存在としての人間/生物一般)を捨象するよう要求し、その恣意的な弁別を批判し、「もの」一般という広範な概念についての理論を用意するのではなく、(抽象された)「主体」についての言説資源がそもそもある特殊な(そしてそれは人間中心的な)利害によって組織されてきた理論を分析(解体)するのが脱構築の仕事

    • 脱構築に対する倫理=政治的な疑惑を提起してきた人々は、これらの主題・「語」(人間、主体)を問いから匿おうとしてきた

    • 主体について語り、その言葉の意味論を語ろうとするのであれば、これらすべてのsujetがその主語であるところの本質的な述語(自己への現前、現前する存在者の権威)を試練にかけなければならない、問わねばならない

    • だがこの問いも始源の言葉ではない

  • デリダによる問い、脱構築

    • 問いの彼岸あるいは前夜は何がどうあろうと前─批判的なものではない

    • それは、「主体」の伝統的なカテゴリーには還元不可能かつ反抗的なある種の責任を、まさしく批判の彼岸に位置づけるのであり、このことが、差延、痕跡、反覆可能性、脱─自己固有化といった過程を認めることに導く

    • この過程はいたるところで働く、すなわち、人類の彼岸でも

    • このように再構造化された言説は、人間的主体が、人間的主体の道徳、法、政治がいかなるものであるか、ありうるか、あらねばならないかという問いを別様に位置づけることになる

    • この仕事は「そのものとして(comme tel)」についての現象学=存在論的な問いを経由する

    • 「そのものとして」現れることは、人間的主体=現存在を、他のすべての自己への関係や「そのものとして」の他者への関係から最終的に区別すると考えられてきた

      •  自体性?あるいは直接知覚・現前性?

    • 現象学=存在論的な「そのものとして」の経験あるいは〈開け〉は、おそらく石や動物にかけているというだけではなく、また他者一般をそれに従属させることができない、またそうしてはならないところのものでもある

    • 他者の「誰が」は他者として消滅しつつ出なければ、決して絶対的に「そのものとして」出現することはできないだろう。法、倫理、政治の問いとしての主体の大問題の数々は決まってこの位置へと連れ戻すのだ

  • 呼びかけ

    • ブランショ:『この経験の主体とは誰であったか?』という問いを立てるとき、閉ざされたただ一人の「私」に答えなき「誰?」の開きを置き換えることで、既に問うものの中では答えが明らかになっている。ラディカルに、もはや『私』としてではなく無限定的な『誰?』として、知られざる滑りやすくとらえ難い存在として、休みなくおのれを把握しなおすことを意味する

    • 〈呼びかけ〉とその知られざる非主体的起源が制定する責任=応答可能性や友愛について人間的ではなく神的でもないといったところで、それが単に「非人間的」だということにはならない

    • それを確認したうえでいえば、この責任=応答可能性のある種の非人間性(とその厳密さ)を保持することは、人間により「相応しい」=より多くの「尊厳」を与える(plus ≪digne≫ de l’humanité)

    • いずれにせよこの方はわれわれに選択の余地を残さない。この他者の〈呼びかけ〉のうちのなにかは、再自己固有化されないままに、主体化されないままに、何らかの形で同定されないままに、基礎なき下設のままに残らなければならない。他者的なものに留まるために、あるいは、応答への、責任=応答可能性への単独的な呼びかけに留まるために

    • だからこそ単独的な「誰が」の主体としての規定には常に問題が残る。そしてそれはそのままでなければならない

  • 誰が?

    • [JLN]疑問詞の「誰が?」は決定的なのではないか?「誰が?」という問いはあらかじめ答えの体制を決定する。その答えがある「者」(quelque un)の答えであるように決定する。あらかじめ決定されるのは、つまり呼ばれるのは、応答する者である

    • [JLN]デリダはアプリオリに問いを人類に限定するものを抹消しながら、この問いの有効性を次第に認めている

    • [JD]問いを西洋的言語だけでなく、言語の人間性そのものと一般に信じられているものによっても規制されたある文法に限定するものを抹消している

  • 動物における世界の欠如の人間学的=目的論的解釈

    • 動物に割り当てられた「悲しみ」から人間性を引き出す

    • ハイデガーによれば動物は世界貧乏的[weltarm]である......しかしこれは動物が世界を持っていないということではない。動物(生物一般)という存在は石などと違い、「世界を持たないという様態で世界を持つ」。それは人間的なある「世界の欠如」ではない

    • 動物は存在カテゴリーを持たない。存在は動物に対してそのものとして(als)現れえないし存在もしない、そのものとして問われることもない(現存在、〈手前存在〉、〈手元存在〉ではない)。動物には世界を持たないという形で持ち、〈開きなき開き〉として持つことしかできないという否定的規定はここから出てくる。

    • ここから来る悲しみの印象を、デリダは人間にとっての、人間の社会の中の悲しみの印象の源泉としてみる。

    • 現象学の規定の中の、「人間の世界への通路を予感しつつも剥奪されている人間、真理への、言葉への、死への、そのものとしての存在者の存在への通路を剥奪されている人間(真理の暫定性、「判断停止」、人間の有限性)」であるかのような動物

      • 〈開きなき開き〉を前に悲しみに暮れる動物は、現象学の中で世界への直接性を断たれ、包み隠され、苦しみもがく人間のようである

  • 供犠的構造

    • ハイデガーやレヴィナスを含め、覇権的言説においては〈呼びかけ〉、友の声、〈友愛的なもの(de l’amite)〉といった責任=応答可能性の起源が動物に到来しうること、そして動物が責任=応答可能性を持つことを否定する

      • 〈呼びかけ〉は現存在が聴く

    • これらの言説は供犠的構造を持つ

    • 非─犯罪的な殺害用に空欄にされている場所を持つ。その空欄は死体の嚥下、体内化、取り入れを含んでいる。

      • ある存在の殺害が(致死として)正当化=否認される構造であり、その否認された殺害=致死は「また誰が主体であるのか」の制定の暴力である。犠牲に供せられ殺害も許容される存在は主体の境界の外へ投げ出される。

      • 犠牲に供された「死体」は「食べられる」(=内化=包摂=自己固有化)。これは実際の殺害・食肉に限定されないものを含意している

    • この取り入れられる死体が「動物」なら行動は現実的かつ象徴的

      • 恐らくラカン的意味に(も)おいて

    • 死体が「人間」なら行動は象徴的

      • この「象徴的なもの」の範囲を限定することは困難であり、〈尺度を外れて〉いる。〈象徴的なもの〉の範囲を限定するあるいはその象徴的食人に関して応答する=責任を取るは(誰・何に対して?)ことが必要なものは無規律性ないし怪物性を示す

  • 典型:レヴィナス

    • 主体性とは初めに人質のものとして構成される。主体は「私」自己としての彼自身より先に他者に対して責任を持つ

    • 「汝殺すなかれ」(これはまさに主体=客体以前に、ゆえに起源なき起源から到来する〈呼びかけ〉の一つである)において、他者に対する責任=応答可能性が到来する。「汝、隣人を殺すなかれ」からさまざまな帰結が出てくる。隣人を苦しめてはならない、痛みを与えてはならない、食べてはならない、たとえほんの少しでも。それらはときとして死よりも悪いから。

      • 現実において、「死ではないから」という理由で他のあらゆる行為が赦されてしまうとするなら、生かしながら苦しみを与えるような残酷な拷問や奴隷や監禁虐待が赦されることになる。極端な例でいえば一切の知覚、感覚を奪い、絶え間ない苦痛によって思考さえも奪うとき、その生がひとつの死ではないとなんでいえようか。その意味でいえば死より悪いことも禁じられるが、しかしどの苦しみが死より悪いかということは決定不能であり、そのことからあらゆる命法が帰結されていくのは当然のことだろう。

    • 「汝殺すなかれ」は超越の無限の遠さにある他者や隣人、友といったものに差し向けられていて、それを前提としながら、「汝殺すなかれ」という言葉それ自体が制定する当のものである人間としての他者へと自らを差し向ける。

    • この「汝殺すなかれ」によって主体はこの他者の人質に(他者に応答し無限の責任を果たすものとして)なる

    • 「汝殺すなかれ」から導かれる帰結には限界がないにもかかわらず、ユダヤキリスト教の伝統やまたレヴィナスによっても、「汝殺すなかれ」が「生物一般を死なせてはならない」という意味で理解されたことはなかった。「汝殺すなかれ」が意味を持ったのは肉食的供犠が本質的であるような宗教文化の中であった

      • 〈肉の存在〉とは旧約聖書における動物の名としての肉だろうか。あるいは霊と対置されるところの穢れた人間の物質性としての肉だろうか。あるいは、ミサを始めとする日常の儀式の中の象徴的肉だろうか

    • 倫理的超越の命法の他者に数えられているのは他者なる人間(他者としての人間、人間としての他者)だけであり、他者─人間が主語(=主体)[sujet]なのだ。

      • 「汝隣人を殺すなかれ」をデリダはレヴィナスがまさしくそのなかで属詞と主語の序列を執行させた著作の表題だと言っている。主語である「汝」は主語規定である属詞の位置にある「隣人」の前に伏し、彼に対する限りない責任を果たすことになる。主語─属詞の能動受動は逆転しており、汝こそが受動的で主語の座から下ろされている。それに対して責任を果たすべき「隣人」こそが人間─主体として定立される。しかしこの言葉を聞く「汝」こそまた人間なのである。

    • ハイデガーやレヴィナスの独創的言説は人間主義を揺るがしつつしかしまだ「供犠を犠牲にしない限りにおいて」人間主義である。生物一般の侵害が禁じられてはおらず、隣人あるいは現存在としての他者の生命=人間の生命に対する侵害だけが禁じられている世界において、レヴィナスの主体喪現存在もただ「人間」である。

    • ハイデガーの道徳意識の根源は生物一般には認められていない。現存在と同様共存在もまた、生物には認められておらず、〈死への存在〉(本来的人間存在)だけに認められている

  • 男根ロゴス中心主義(Phallogocentrism)

    • 主体の概念の支配的図式は男根ロゴス中心的であるだけでなく、肉食的男性性をも含んでいる(今後の証明対象)

    • 完全な市民、倫理的、法律的、政治的主体に女性そして/または菜食主義者が認められることになるのは、主体の概念が脱構築され始めた最近においてであった。

    • 主体の図式あるいはイマージュは男性的形象を主体の規定的中心に据えていて、権威と自律(法の服属としての自律=自由(カント以降の哲学))は女より男、子供より大人、動物より女に認められ、男性的な力が主体の概念を支配する図式に属してきた。

      • 友愛の規範は兄弟の図式を特権化する─この友愛とはブランショのものだろうか、シュミットのものだろうか、その二つは同じなのか

    • われわれの諸文化では供犠を受け入れ肉を食べる

      • 言うまでもなく現実的な食肉および象徴的食人

    • われわれの(西欧の)諸国において、自らが菜食主義者であることを公的=範例的に宣言しつつ国家元首になる機会を有する人はほとんどいない。象徴的な捕食/被食の関係にあるために指導者は肉を食べるものでなければならない

      • 現実の食肉と象徴的な食肉を同化するメタフォリカルな操作であるが、2023年現在においても、現実の他者への倫理として菜食を要求するヴィーガンに対する視線を考えれば、今の社会の状況は30年前のこの対談が念頭に置いたものに依然として近しいのだろう。デリダは「彼自身が「象徴的に」食べられるために」指導者は肉を食べるものでなければならないと語るが、被食性が強調されるのは、指導者という地位が規範や模範=国民が自分の中に取り入れるべき存在であることを意味するからと解せる

    • 菜食主義と同様もしくはそれ以上に、独身、同性愛、女性性といったものも同じ供犠の構造の中で排除されたものであった。何かの〈頭〉、国家の〈頭〉(集団の指導者、模範、象徴.....)につくことが女に許されることは暫定的かつ極めてまれなことであって、それも彼女が、男性的かつ英雄的図式のうちに翻訳されるがままになる場合に限られる。

      • ジャンヌ・ダルクは男装した。

  • 主体性そのものの支配的図式

    • 供犠の構造に関する問いに応答することで明らかになるのは、単に支配者の図式、政治、国家、法律、道徳において支配する者たちの共通分母の図式ではなく、主体性そのものの支配的図式

    • 倫理的な(許容されるか否かの)境界線はもはや「汝殺すなかれ(人間を殺してはならない)」と「生物一般を死なせてはならない」の間に走っているのではなく、他者の概念=懐胎[conception]=自己固有化=同化の無限に異なった様態の間に走っているのだとすれば、その場合にはあらゆる道徳の「善」[bien]に関する問いは自己を他者に/他者を自己に関係づける最良の仕方(=最も多く贈与する仕方)を規定することに帰着するだろう

      • われわれは動物を肉として食し、同時に儀式において供物として捧げるというあり方で象徴的に内化してきた。われわれの多くは食人を禁忌としてきたが、同時に象徴的には他人を常に、尊敬の対象や模倣の対象、欲望や欲求、あるいは計算や予測の対象として、自己の中に取り入れている。象徴的な食人を含めれば、食べることはもはや人間と動物の間の境界を意味しない。供犠の境界、倫理的(であること)の境界とは、「人間は食べてはならない/動物なら食べてよい」二元的境界ではなく、他者をどのように食べることならよいのかという複数の様態、無限の様態の中に書き込まれる必要がある。

    • 問題はもはや他者を「食べる」のが、どの他者を「食べる」のがよい[bon]かあるいは正しい[bien]のかではない。われわれは他者を食べ/他者によって食べられることから逃れることはできない。非食人的諸文化は象徴的食人によって社会性・崇高性(法律政治道徳において)を構築している。菜食主義者も動物をまたは人間をさえ食べている=別の種類の否認を行っている。

      • 非食人的諸文化における象徴的食人は、外部(野蛮)に対する食人か、指導者(〈頭〉)の内面化という食人か(恐らくはその双方か)。食べることに必然的に伴われる否認とは「殺害の精神的表象」の否認か、「権利=主体性」の否認か、他者の現実性(=無限性)の抹消という意味での否認か。

      • 供犠の構造が、捕食(殺害)の正当化=否認によって反対物(あるいは食べることの主語)に主体性を与えることであることに注意したい。動物をある形に解釈=計算=体内化する菜食主義者は動物の現実的なありかたを抹消=殺害=否認することで自らを定式化=主体化している。このとき、共同体の中で「食べられる」指導者とはどのような位置に来るのだろうか。主体性の極致としての指導者は他者を「食べ」(肉食主義者であり)他者にまた象徴として「食べられる」。これは後年のデリダの共─自己免疫性や補償作用と生き-延びの議論に繋がるのだろうが、食される=殺害される彼は、現実性において否認されるが、そのことによってむしろ、象徴的な作用あるいは象徴的な身体を獲得する(sur(超)-vie(生)、生き残り)。その無傷さ(聖性)を事後的に回復する。(生贄の儀式と戴冠の儀式は近似できるか?)

  • 正しく食べなくてはならない

    • 何であれわれわれはとにかく食べねばならない(Il faut bien manger)以上、そしてそれが〈正しい=快適な〉[bien]ことであり〈適切な=美味しい〉[bien]ことであり、〈善〉にはこれ以外の定義がに以上、問題は「いかに正しく食べるべきか[comment faut-il bien manger]」ということになる

      • bien……. 善く、適切に、快適に、美味しく

    • 〈取り入れ〉の換喩としての〈食べる〉をいかに規制するべきかが問題となる。あるいは、上記の問いを言語に定式化すること自体が食べるべきものを与えうる。問い自体も、いかなる点でか肉食的である(=他者の包摂に関係する

    • 「正しく食べなくてはならない」を「主題」[sujet](主語、主体)とする問いは、単に私にとって有益であってはならない。「正しく食べなくてはならない」が意味するのはprendre自己のうちに取ること(take, grab=prehend), comprendre自己のうちに包摂=理解すること(understand=comprehend)ではなく、apprendre学ぶこと(learn)、donner食物を与えること、他者に食物を与えることを学ぶことである。

    • 決して一人で食べてはならないというのが「正しく食べなくてはならない」の規則であり、無限の歓待の掟である。あらゆる差異、決裂、戦争に賭けられているのは自他の架橋としての「正しく食べる」ことである。この格率は、他者への欲望、尊敬、経験、理解、法、呼びかけであり同時に法廷であるような〈法〉を尊敬し始めなくてはならないまさにその時における他者に対する尊敬を言う、それらにとって根底的な格率である。

    • 他者に対する尊敬の崇高な洗練は「正しく食べること」あるいは「善を食べること」、善も食べられ、また善を食べなければならない

  • 供犠

    • ここに至り「誰が」と「供犠」の意味を限定することは困難だが、供犠の意味の指標を取り上げることはできる

    • 供犠........致死の必要、欲望、許可、正当化、殺害の否認としての致死

    • 否認=主体としての「誰が」の暴力的制定

    • 「……を死に至らしめるは殺害ではない」という形での

  • 主体と他者

    • ハイデガー・レヴィナスの思考の図式において、主体がそれに対して/向けて被投される/人質として晒される他者についての規定は似通っている(ここで明言はされない)

    • 超越の〈近さ〉そのものにおける「隣人」

      • デリダ(/レヴィナス)についてよく言われるのは、tout autre est tout autre(まったき/全ての他者は全ての/まったき他者)という定式で知られる絶対的他性と現実的他者(この語はさまざまな文脈で不適切と思われるが)の接続である 

    • これらの思想が宗教的空間の民族学であることも示しうることである(ハイデガーのユダヤ=キリスト教性、あるいはヒンズー文化の政治的位階・宗教的位階と菜食)

  • 言語と動物

    • [JLN]デリダが必要とする人間から動物への転位において、言語には何が起こるか

    • 従来の、人間が唯一の語る存在であるという考え方をそのまま転位させることはできないし問題含みである

    • 言語活動を存在者の周囲を取り巻くものとしてではなく存在者に内側から刻印を記すような可能性のうちに書き込みなおすのであれば、言語活動は人間固有であるわけではなくなる

    • 刻印、痕跡、反覆可能性、差延は言語活動の条件としての諸可能性・諸必然性であり人間固有的ではない

      • 他では差延は準-超越論性として言及される場面がある

    • 人間と他の存在の間の断絶と異質性を抹消するのではなく、断絶が〈人間〉と〈人間以下〉の間に唯一の二項対立を産むことへの意義

    • 動物的言語活動、遺伝コード、その他の刻印化を念頭におく

    • 人間言語活動がどれだけ独自のものであっても恣意的に特権化することはできない。同様に、何を主体として切り取るべきかは未決定

  • 「今ここ」における道徳

    • [JLN]ここで主体への深刻な疑義が提出され、倫理、法律、政治などの主体を問うことが留保されてしまったところで、今現在の責任をどのように問えるのか。それらは「暫定的道徳」でしかないのか。関連して、全般的なコンセンサスが絶対的責任と認めるアウシュビッツについてどう応答するか

    • これまでわれわれが議論してきた諸公理こそが、伝統的道徳と法律のモデルそのものを暫定的図式として構成し、責任の概念を諸々の境界の中に限定してきたが、これらの境界に責任を持つことはこれらの公理によってはできない。

    • 既存の公理が打ち立てる暫定的図式を超過する責任を、待機し先延ばしすることは可能でないし正しくない。それは脱構築的挙措を呼び求める。

    • 暫定的諸規定を脱構築せよという動機付けは無条件的で命令的かつ即自的

    • 暫定的諸規定は絶えず脅かされ、つねに攪乱される

    • [JLN]強制収容所に関するハイデガーの全面的沈黙と脱構築的対決は比較可能か?

      • 暫定的規定に対する対決は常に構築物の否定として沈黙、非存在と同義になってしまうという意味だろうか

    • 超過分の責任は沈黙を許さない

    • 責任は過剰であるか、責任ではないかのいずれか

    • 有限・計算可能・合理的に分配可能な責任は道徳の法律化である

      • 有限の責任は相対的な責任として、他と比較した際に抹消や否認を被る可能性を有している。デリダにおける責任の無限性とはまた別に。

    • アウシュビッツという固有名詞がなぜ換喩的に使用されるのか、なぜ他の収容所や大量虐殺の名ではなくむしろこの名なのか?なぜ雄弁に用いられるのか

    • 濫用されるアウシュビッツという語の指示対象について、それに見合う言説が未だなく、アウシュビッツの本当の犠牲者については何も言うべきことがないことがないにもかかわらず、沈黙を診断したり、あらゆる他者の抵抗や考えたことがないことを問わず語りに白状させるような真似はやめるべきである

    • アウシュヴィッツに関する沈黙を正当化することはできないが、アウシュヴィッツについての道具的な語り、雄弁も、沈黙と何ら選ぶところはない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?