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本には「読書」と「使書」がある

あるんです。
ご存知ですか? 使書ということば。
まあ使書って私が今日つくった造語ですけど。

まあ聞いてください。

↑これが「読書」か? 読書っていうのはなんか違くないか? という議論がバズっておりました。

本当に全部読んだならすごいことだけど、私もなんか直感的に「読書」ではないなーって思ったんですよね。

noteでも「読書」のハッシュタグつけると「読書家です!」というアカウントのスキがいっぱいつくんですが、記事みると全部自己啓発書で「書籍を読んでるだけでは読書家っていうのとは違うんじゃ……」といつももやもやしています。この記事にもつくのかな。

読書の定義っていろいろあると思うんですが、おそらくは、たぶん、独断的な判断ですけど、「読書」って、その書物、書籍、著者の主張する世界に潜るような行為、のようなもの、と思っています。ダイブ的な。

小説でその世界に潜る、ノンフィクションや新書で著者の主張、発見の世界に潜る。そういうのが私の思う「読書」で、それをそれなりの頻度でやっている人こそが「読書家」。本とは旅である、本をめくれば旅人になれるのだと島本和彦も言っていた。そう、潜水、旅、遠く、別の世界をのぞくこと、それが読書。あくまで私にとっては、ですけど。

つまり冒頭に挙げたようななんか……なんていうか、実用書とか自己啓発書とか「読み手が今かかえている現実に役立てるために知識を得る、そのために書物の文字を追う」は、私の思う読書ではない
じゃあその行為をなんと呼ぶのか? 読書は今の自分から離れて本の中へ旅に出ること。逆に自分の現実を変えたり変わったような気になったりするために本の中に手をつっこんでぐっとなにかをわしづかんで取り出すような行為のこと。

これを私は今日「使書」と名付けました。
書を読むのではなく、書を使うために文字を追う行為です。
冒頭のツイートは読書記録ではなく使書記録です。

さてここで「使書」の完遂度というものが気になってきます。
読書と一言で言っても流し読み、斜め読み、中断、精読といったグラデーションが存在します。
「現実の生活に役に立てるために書物を開く」という使書にも、グラデーションがあるわけです。
読み終わって「なんかすごいこと書いてあった!今日から変われる気がする!」「中に書いてあること一つくらいは実践してみよう」「書いてあること全部真似しよう」みたいなグラデーション。

役に立てたくて読む本なら「使う」「行動」に至らなければいけなくて、「読み終えた」だけではその本の文字を追った意味はたぶん無いです。おそらく、きっと、たぶん。使書のための本を読書したって意味がない。

というわけで積んでる「使書」本の分解と「使用」にかかります。
とりあえず「独学大全」を「使う」ために見直してみたら発見がいくつかあったのでその話もいずれ。


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