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ある ❝ 偉人 ❞ の別の顔 賀川豊彦と部落問題

    久しぶりに机の上を整理していたら、1月16日付けの朝日新聞朝刊の切り抜きが出てきた。今年は関東大震災の発生から100年にあたる。28年前に起こった阪神・淡路大震災と併せて、1月に開催された「復興・減災フォーラム」(関西学院大学災害復興制度研究所主催、朝日新聞社後援)の内容が報告されている。
 私がこれを切り抜いたのは、作家で大阪芸術大学教授の玉岡かおる(1956年、兵庫県生れ。敬称略、以下同)が、「特別講演」で賀川豊彦かがわとよひこ(1888ー1960)について語っていたからだ。
 農民組合・労働運動の指導者、生活協同組合の生みの親として、またミリオンセラーの自伝的小説『死線を越えて』(改造社、1920年)の作者として知られる賀川は、20代以降の10年余を、兵庫県神戸市のスラム・新川しんかわに住み込み、キリスト教伝道と救貧活動に励んだ。
 そこでの見聞などを『貧民心理の研究』(警醒社、1915年)で触れているのだが、その記述が差別的だとして、被差別部落の運動団体・全国水平社の同人から抗議を受けた。同書は絶版となった(とされている)が、その後『賀川豊彦全集 第8巻』(キリスト新聞社、1962年)に収められている。
 私が賀川、そして玉岡にたどり着くまでに、ワンクッションある。数年前、ハーバード大学教授のマーク・ラムザイヤー(1954ー )が、慰安婦は単なる商行為としてそれに就いたなどとする英語論文を発表し、抗議の声が挙がった。
 彼はそれ以前に、部落問題に関する論文も執筆していた。拙著からも多数引用していたので読んだが、研究者が書いたとは思えない杜撰な内容だった。
 ラムザイヤーは賀川の前掲の著作も引用している。したがって私は、ラムザイヤーの部落問題論文を検証するために、賀川の著作にも目を通した。被差別部落に対する視線は差別的で、スラムの聖人の別の素顔を見た気がした。それ以来、私は賀川豊彦という人物に興味を持ち続けている。

 玉岡がなぜ、フォーラムで賀川のことを語ったのか。昨年(2022)10月に、賀川の妻・ハル(1888ー1982)の評伝を出版したかららしい。『春いちばん 賀川豊彦の妻ハルのはるかな旅』(家の光協会)である。玉岡はフォーラムで、賀川を次のように語っている。
<近代日本の社会問題に献身した賀川は、何度もノーベル賞候補になった偉人ですが、今ではあまり知られていません。日本が豊かになり、貧しい時代を忘れたからですね。
 1888年に神戸で生まれた賀川は、両親の死後、徳島の親戚宅で優秀な若者に育ちますが、肺結核にかかって死の淵をさまよい、人生観が一変します。キリスト教に入信し、明治学院大学を卒業すると、どうせ死ぬなら命は弱者に捧げようと神戸の最貧地区に飛び込むのです。絶望に沈む人々の ” 隣人 ” となり、寄り添って生きてきたわけです>
 この記事が掲載された約1カ月後、友人が京都新聞を送ってくれた(2月12日付朝刊)。友人が書いた記事に、少しだけ協力していたからである。
 ページをめくっていると、また玉岡が、<社会運動家・賀川豊彦の評伝小説を著した作家>として、彼について語っていた。小説の主人公は、妻のハルのはずなのに(記事は共同通信の配信である)。
<(賀川は)ノーベル平和賞と文学賞の候補にもなった偉人です。‥‥神戸市内にあったスラムに暮らしながら貧困問題に取り組んだ。実際に苦しむ人々の隣人となった。だから「安全な水とトイレ」がいかに大事か知っていた。「持続可能な開発目標(SDGs)」の実践の先駆けです>
 賀川がSDGsの先駆けであることは、先述のフォーラムでも語っている。その惹句に需要があるからだろう。
 気になったので、春先に玉岡の著作『春いちばん』を買って読んだ。賀川の前掲書に目を通していただけに、なんともいえぬ違和感があった。
 つい最近、たまたま旧知の知り合いのキリスト者2人に立て続けに会い、ラムザイヤーと玉岡の話をした。そのすぐあとに、朝日の切り抜きが出てきたので、あらためて賀川の著書を読み直した。偶然が重なったわけである。

 賀川は『貧民心理の研究』で、日本のスラムについて、次のように記述している。
<日本全体の貧民窟から云えることは、もし都会に貧民窟と云う可きものがあるならば、それは特種部落より発達して居ると云ふ可きことである。実際に之は驚く可き事実で、日本に於て実際、純平民の貧民窟は無いと云って然るべきである。神戸の七貧民窟が全部さうである。京都がさうである>
 賀川の文章には<穢多><穢多族><特種部落><特種民><新平民><純平民>などの言葉が頻出する。旧身分やそれをあらわす新語をそのまま使うのは無神経である。言葉に敏感ではない人なのかもしれない。
 賀川がいう<貧民窟>は、スラムのことである。都市にある被差別部落の多くが、スラム的な様相を呈していたことは事実だが、だからといって貧民窟が<特種部落>から<発達>したわけではない。
 そもそも貧民窟は、近代化の過程で、困窮した農村から都市へと人口が流入した結果、形成されたのだから、近世以前の賤民に起源を持つとされる被差別部落とは成り立ちが異なる。
 例えば当の賀川が住んでいたスラム・新川は、明治中期から後期にかけて、あふれだした貧民を神戸市が被差別部落の近くに誘導した結果、形成された。つまり、行政主導なのである。<純平民の貧民窟は無い>(被差別部落でないスラムはない)という記述には、何の根拠もない。
 このように賀川は、今から考えると思い込みが激しい人物で、『貧民心理の研究』は、新川での居住体験を踏まえた学術書の体をとってはいるが、中身はかなり眉唾ものである。
 特種部落に強い関心を持っていた賀川は、その起源には<奴婢奴隷捕虜><罪人穢多編入>などの説があると明示した上で、自らは<人種説を取る>と明言している。その理由が以下だ。
<彼等の或者が(例へば神戸長田村の如き)支那語のアクセントを発して居るものあり、播磨の或特種民は朝鮮語の名詞を保留し、近江南村のそれも韓語の形跡を留む云ふ以上敢て疑ふ余地は無い>
 アクセントや名詞に日本語とは異なるものがあるからといって、人種が違うと断言してしまうのだから大胆である。そんなことをいえば、どの言語にも他人種・民族・地域の影響はあるだろう。

 身体的特徴についても述べている。
<殊に彼等の皮膚を研究すれば穢多には一種特別の人種があることは確である。例へば、彼等に白皙種の多いことである。之は実に驚く可き事実で、どうしてもカウカサス種の子孫としか私には取れないのである。穢多の間に美人が多いことは誰も認めて居る処であるが‥‥之等も何かその辺に人種的起源があるのは確である>
<彼等の中に肥大漢が多く、身長は概して普通の日本人より大きく、感情も自ら日本人と異なった処があるではあるまいか。激情、薄情、団結的、嫉妬深きは、たゞ彼等の境遇のみから来たものであろうか? 一種の民族的のものでは無からうか?>
 部落は近親婚が多いので、身体的特徴があるというのは差別的な俗説で、医学的根拠はない。<穢多の間に美人が多い>というのも、 ” 掃き溜めに鶴 ” 的発想で、 ” 隣人 ”(玉岡)とは思えぬ発想ではないか。激情、薄情、団結的、嫉妬深きは民族的なもの、という主張も、特定グループを悪しざまに言う、典型的な差別言辞である。
 賀川は部落は人種が違うと述べた上で、次のように結論付ける。
<一般に犯人種が一種の血統系統を有して居ることは拒めまい。そして彼等が日本帝国中の犯罪種族であることは誰も拒むまい。近江蒲生郡南野村には人口二千六百しか無いがその中には三百五人の前科者があり、和歌山県では新平民の犯罪は平均普通民の三倍半に当ると云ふではないか。彼等は即ち日本人中の退化種――また奴隷種、時代に遅れた太古民なのである>
 滋賀、和歌山ともに、犯罪統計の出典は書かれていない。犯罪種族、退化種、奴隷種、時代に遅れた太古民に対する解決策を、賀川は次のように唱えている。
<都会の貧民窟といっても、実は穢多的結合をして居るものが多いので、殆ど人種的と云ってよかろうと思ふのである。
 東京の今日の貧民が然しどれだけ穢多から成り立つて居るかと云ふことはわからぬが、よく調べたら或は貧民の三分の二以上が穢多であるかも知れないと私は思って居るのである。之はだから日本の貧民窟研究に志すものが決して忘れてはならない、人種的貧民分解法である>
 都会の貧民窟は穢多に<侵略>(別の文章で使用)されているので、一般の貧民とそれを人種的に分解することが必要だと説いている。<彼等の蓄財心の乏しいことも一種の謎>と述べたあと、こう結論付けている。
<然し私は決して特種民の改善に悲観するものでは無い。実際彼等の多くは今日既に改善せられて居り、また彼等自身も都会に流入して自己淘汰ヽヽヽヽを行ひつゝあるのである。近世都市は彼等を吸収して近い中には彼等の一部が犯罪人種として残る外は全部消滅させるであろう。又幸にも彼等の増加率は日本人全体の増加率より大で無いだけ、彼等の活力も少なく、唯貧民間の勢力が益々大になるばかりの外は憂ふるに足らぬから、よき淘汰法と、教育によっては、普通の日本よりも善良優等なるものを創造し得るは私の信じて疑はぬ所である>
 部落を異人種、劣った人種と決めつけた上で、都会へ流入することで、<犯罪人種>以外は淘汰・消滅できると主張している。
 特殊民の増加率は、<幸にも‥‥大で無いだけ‥‥憂ふるに足らぬ>とは、キリスト者にあるまじき表現ではないか。部落人口の抑制を願う、賀川の思想が色濃く出ている。典型的なマジョリティ、もしくは為政者の発想である。
 また、どうしようもない者以外は、教育によって<善良優等なるものを創造し得る>という思考はいかがなものか。<善良優等なるもの> とは、どんな<人種>を差すのだろうか?
 作家の玉岡かおるは賀川を<「持続可能な開発目標(SDGs)」の実践の先駆け>と持ち上げたが、実は日本の人種差別主義の先駆けでもあったのだ。
 ちなみに、前述したハーバード大学教授のマーク・ラムザイヤーは、『貧民心理の研究』を無批判かつ恣意的に引用し、賀川と同じ論調で、部落民の暴力性と都会への流入による消滅を説いている。
 賀川豊彦は、現在も 生きているのだ。

 賀川の同書は版を重ねたが、水平社同人の抗議を受け、その後、増刷はされなかった。賀川は自伝的小説『石の枕を立てて』(『賀川豊彦全集第19巻』所収)で、<書き過ぎてゐたこともあったので、咎められるのも仕方がなかった。しかし、それは研究として書いたのであって、同志に対する尊敬と奉仕の精神は変わらなかった>と弁明している。
 研究書であれば、また同志への敬いがあれば――本当にそう思っていたかは別として――問題は無い、と思っていたわけである。差別者の開き直りではないか。
『石の枕』では、部落問題の解決は<愛と奉仕の外にない>と説き、水平社の差別糾弾闘争を<圧迫者に対する憎悪の福音>として嫌っている。特定グループを<退化種>と断じる差別主義者が<愛>を説いても、説得力はない。
 差別問題解決の要諦は、まずは差別者と差別的状況の変革であろう。自らの偏見や差別意識を省みることなく、愛や奉仕を説く賀川に胡散臭さを感じるのは、私だけだろうか。
 賀川は神戸に在住時、新川の住民のために無料巡回診療を始めたが、医療関係者に、次のようにアドバイスしている。
「あんた、この世の中で生きていくのに一番大事なことは、有名になることやで、有名にならなんだら、なんにもでけへん。あんたはこういうやり方して、続けていくうちにきっと有名になるよって、その有名になることが、この仕事のできる大事なもとだということ、ようおぼえときなさい」(『激動を生きた男 遺稿・馬島僴自伝』(馬島僴、日本家族計画協会、1971年)。
 愛と奉仕を信条とする敬虔なキリスト者とは思えない、処世術の持ち主ではある。凡夫の私は、その言葉に深く共感すると同時に、危うさも感じる。
 研究書にしろ文学作品にしろ、賀川が描く<特種部落>や<新平民><穢多>には、いっさい愛がない。あるのは、胡散臭い利用主義だ。

玉岡かおる著の『春いちばん 賀川豊彦の妻ハルのはるかな旅路』

 現代の作家・玉岡かおるは『春いちばん』で、貧民窟・新川と賀川について、次のように描写している。
<水道の栓は三千人に五つほどの割合しかなく、住人はいつも汚れている。もちろん家に電気は引かれておらず、ランプどころか薄暗いカンテラがあればましな方だ。病気になっても医者に診てもらう金などないから、弱ってただ死を待つばかり。便所に近いジメジメした区画には、仕事にも行けず、食べられずにいる人々が暗い目をして暮らしていた。
 そんな住人たちに、賀川は心から ” 隣人 ” として手を差し伸べ続けているのだ。
 極限まで病み衰えた人たちを、賀川は笑みを絶やさず、心をこめて世話をする。感謝も見返りもない。だからそれは献身というより犠牲であろう。盗まれ、殴られ、むしり取られても、彼はそれを被害とは思わず、さらに持てるものがあれば差し出してしまうのだ>
 被差別部落を劣等人種ととらえる者が、あたかも聖人であるかのように描かれている。 
 新川というスラムが、行政によって被差別部落の近くに貧民を誘導して形成された歴史を持つことは先述した。『春いちばん』には、被差別部落に関する記述が、1ヶ所だけ出てくる。
<賀川は貧民窟のみならず部落にも入り込んで、この国の社会問題と向き合おうとしていた。この国が、表面だけ近代化を推し進め欧米の一等国に肩を並べたいなどと言っていても、内側はまだまだ貧しく、すさんだままである事実を調査したものだ>
 部落問題を知らない読者がこれを読んだら、さっぱり理解できないだろう。<部落>だけの表記だと<集落>と思ってしまいかねない。
 偏見を含めた被差別部落に関する前のめりの賀川の記述とは逆に、玉岡のそれは淡白すぎて、何のことやらわからない。
 また、<部落にも入り込んで、この国の社会問題と向き合おうとしていた><すさんだままである事実を調査した>とは、具体的に何を差すのだろうか。
 特種部落=異人種起源説を唱え、特種民の異常性を強調した賀川が、果たしてまともに部落問題と向き合おうとしたのだろうか。スラムに住み、<愛>と<奉仕>を実践しながら、心中は侮蔑していたのではないか。
『春いちばん』には、参考文献が6冊だけ挙げられている。賀川の自伝的小説や礼賛本はあっても、必読の『賀川豊彦全集』(全24巻)はない。弱者に寄り添う聖人ぶりだけがフォーカスされるはずである。

 過去または現在において、ある個人が差別的な思想を持ったり、それらしき発言・記述をすることは、ままある。私とてその例外ではない。私たちは、完全な人間ではない。その時代に信じられていた学説や風説の影響を受けることもある。
 被差別部落の起源を人種に求めたり、それを劣等であると断じたからといって、賀川豊彦を全否定するつもりはない。スラムの改善運動やその他の社会事業に対して、その功績を認めるにやぶさかではない。
 ただ、被差別部落に対する賤視は<書き過ぎてゐた>というレベルではない。また、後年に第三者の作家が、そのことに触れないのは、不自然かつ、不誠実である。
 賀川の被差別部落に対する眼差しへの疑義は、少なくとも1980年代から指摘されている。例えば『キリスト教と部落問題 歴史への問いかけ』(工藤英一、新教出版社、1983年)や『ミナト神戸 コレラ・ペスト・スラム 社会的差別形成史の研究』(安保則夫、学芸出版社、1989年)などの著作である。本稿は、これらの教えに負うところが大きい。
 人間・賀川豊彦を考える上で、<特種部落>を含めた社会的弱者に対する視線は、きわめて重要なポイントである。その<特種部落>を<退化種>として賤視・差別していたにもかかわらず、万人に平等に接した聖人であるかのように描くのはどうか。作中だけでなく、玉岡は公衆の面前で、賀川をはっきりと<偉人>と語っている。
『春いちばん』の帯には<社会学者上野千鶴子氏絶賛!>という目立つコピーに、上野(1948ー )の以下の文章が掲載されている。
<後から来た女は前に歩いた女を見いだし、生きかえらせ、出会い直す。力づよい評伝文学だ>
 賀川には触れていないけれど、碩学の上野でも、彼の差別性を知らなかったのだろうか。<前に歩いた女>は見いだされたもしれないが、夫の差別性や部落問題は見過ごされたままである。

 賀川が神戸・新川に移住してから100年が経った2009年。ミリオンセラーの自伝的小説『死線を越えて』の復刻版が、PHPから刊行された。宗教学者の山折哲雄(1931ー)が、序文を書いている。
<賀川が神戸のスラム街に入ったころは、日本資本主義の勃興期にあたっていた。‥‥労働者は劣悪な状況におかれ、社会保障もいきわたってはいなかった。貧富の差ははなはだしく、貧民階層の不満が世の中を覆っていた。
 そのような時代に、スラム街における愛と献身の物語が文字どおり彗星のように登場したのだ>
<賀川豊彦は、生涯にわたって社会的弱者の側に立ち、「友愛、互助、平和」を国内外で説きながら、わき目もふらずに活動した稀有の人物だった。
 今回の本書の復刊を機縁として、賀川豊彦理解の輪がさらに広がっていくことを心から念願して、推薦の辞とする次第である>
 疑い深いノンフィクションライターの私は、自らが書いた小説ヽヽを、<愛と献身の物語>と言い切る宗教学者に、「あなたは何を研究してきたのか」と問いたい。
 繰り返し言う。凡人であれ偉人であれ、ある時期に差別的なふるまいをおこなうことはある。ただ結果的にであれ、それを無かったことにして、天まで持ち上げるのは、犯罪に加担するようなものではないかと私は思う。<2023・5・31>

ハーバード大教授のマーク・ラムザイヤーの部落問題論文に関する拙文のまとめは、以下☟

https://kadookanobuhiko.tumblr.com/post/643811595413241856/%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E3%81%AA%E3%82%8B%E7%B2%BE%E7%A5%9E-%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%82%81

ラムザイヤーの英語論文(ただし草稿)は以下。賀川豊彦についての記述は23~25ページ。糾弾をめぐって、水平社のメンバーと確執があったと記されているが、発端となった『貧民心理の研究』の内容(異人種起源説)については述べられていない。
https://extranet.sioe.org/uploads/sioe2019/ramseyer.pdf

続編「賀川豊彦が気になって」

続編 「賀川豊彦の資料館に行ってきた」

https://note.com/kadooka/n/n38adbc30f08d

続編 「春いちばん」再読 ①

続編 「春いちばん」再読 ➁

続編 「春いちばん」再読 ③
https://note.com/kadooka/n/n359e41d6ae1d


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