全部「ららら」で唄う
年末に些細なことで言い合いをしてしまった人との間に、いまだに気まずい空気が流れている。
1人でいるときには大抵その日のことを考えていて、言い過ぎたかもしれないと思う気持ちと、普段は表に出さない自分の本心を大事にしたい気持ちを行ったり来たりしている。
事の発端は、相手のみぞ知るところではあるものの、推測するに自分ののらりくらりとした態度が引っ掛かりを作ってしまったのだと思う。
覚悟がない、と言われてしまった。
関係性がある程度築けている相手と真面目な話や深い話をするのが苦手な自分は、構えていない時にそういう類いの話を振られたときについ逃げてしまう。何も考えていないわけではないけれど、腹を決めていることは自分自身がわかっていれば良いし、それについて誰かと共有をしたいとは思っていない。
仕事で何か人を巻き込んだり、組織全体の何かが関わる話なら性格的な部分を切り離して、議題として共有するし、意見を述べるし、振る舞うだろう。そこにはきっと、客観的に見て良し悪しを判断できる要素があって、こうしたほうが良いという答えがあるから。
それに対して、覚悟は極めて個人的なものだと思う。現時点で置かれている環境の他にも、過去のバックグラウンドであるとか、それぞれの経験によって形成されているんじゃないだろうか。人それぞれ守りたいものは違くて、いろんな強度のいろんな色の覚悟があるはずだ。なので、それを口にするには、まず自分自身にしかわからない前提を伝えない限りは齟齬が生じてしまう可能性がある。そういうリスクを負ってまで、覚悟について1から10を誰かに伝えようとしなくても、自分がわかっていたらそれで良い。口にしないからといって、覚悟がないわけではない。
相手の覚悟にしても深くは聞きたいわけではないし、そんなに知らなくても良いのではないかと思っている。生きている、立っている、すごく些細なことでも現在進行形で何かをしているのであれば何かしらの意思があってそれをしているわけで、それだって覚悟にはなると思う。
事細かにそれを確かめるよりも、だいたいの見ている方角が近しくて、向き合いたい物事が似ているのであれば、あえてすべてを言葉にせずとも成立するんじゃないかと。
仮に覚悟の強弱や大小、それに対する捉え方が違っても、もっと大きな部分で相手のことを尊重できているのならば納得できることってあると思う。
今こう書いていみてみると「近しい人と当たり障りなくいたい」という自分の中にある願望が読み取れるような気がする。大人になってから言い合いをした記憶がないのは擦り合わせをしてこなかったからで、当たり障りのない関係を続けてきたからだろう。でもそれは、擦り合わせてでも分かろうとしたかったり、正しいことを正しく言いたいと思う人に対しては真摯でも誠実でもないし、全然正面を向いていないなと思う。
そうしてこなかった、のらりくらりの末路が「覚悟がない」の一言だったのだとしたら、それは相手に何かを言われたことに対して相手に言い返したのではなく、言われて嫌だった言葉の後ろにある自分が抱えるものに対しての反発だったのかもしれない。
今まで、楽しいことを一緒にしてきたし、まったく分かり合えないわけじゃないと思う。けれどそれは自分が信じたくて作ってしまった相手の一面なのかもしれないし、その思いはただのそうあって欲しいというこちらの願いだけなのかもしれない。
意味もなく過ごしていた日常に意味があったことに気がついたとき、その日常はものすごく遠い過去にある。
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