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〜したりすると

8月中旬に捻挫をしてから一ヵ月ほどが経ちました。
怪我の直後は痛みや腫れもかなりあり、2日間は松葉杖と生活を共にしました。鼻が詰まったりすると呼吸をしていたことが解るように、怪我をすると普通に歩けることの尊さに気がつきます。

痛みの様子を見ながら早めに松葉杖を手放し、サポーターに替え、それも外して…今までにはないくらい順調に回復ができたのは、日頃の食事やパーソナルトレーニングの結果かもしれません。
(私は毎回痛みが長引いてしまうので、今回はその順調ぶりに驚きつつ、調子が良い時こそ気をつける必要があるので地道に筋トレをして過ごしました)

これを書いている今は全体の練習にも復帰し、身体の調子も悪くない感じです。身体の状態よりも、「接触プレーで何かあったらどうしよう」という恐怖心が気になるのが正直なところです。こればかりは、不安を自信で打ち消す他ないので、筋肉痛を歓迎するくらいの気持ちでフィジカルに向き合っている最中です。

今回、初めて「怪我をして良かった」と思っています。

ひと月前はリーグ戦の終盤で、試合出場が少ない自分は躍起になっていた部分がありました。焦り、というのが近いかもしれません。曲がりなりとも、サッカーに充てる時間でお金をもらっている以上は試合に出場することが組織への貢献にも個人の評価基準にもなりますし、人前に出る職種を選んでやっている以上は純粋に観客の皆さんの前でパフォーマンスをしたいわけです。
このバランスはすごく難しく、前提としては組織>個人ではあるものの、それぞれの状況によって生まれる感情で、個人の欲求も強くなります。私の場合は、出場時間が短い/一分一秒でも長く試合に出たい/リーグ戦の終わりが見えてきた、といった状況下でした。

そういったあれこれが重なり、恥ずかしくも客観よりも主観でプレーしていた時期の捻挫でした。怪我自体はネガティブですが、幸いにも軽い怪我で済み物理的にストップがかかったことで、思考の整理に充てられる時間ができました。

今のチームはトレーナーがいないので、リハビリのメニューやできるトレーニングを考えることが、必然的に自分との対話になります。
「気持ち的にしんどいけれど頑張りどころだな」「昨日のトレーニングを今日の動きに繋げたいから、こうしよう」「走れなくても心配機能は落とさない方法を考えよう」…などなど。サボりたい自分も居ますし、昨日に劣りたくない自分も居ます。怪我していないチームメイトを羨ましく思う自分だって居ます。
自分自身と話すことは、人には見せない自分の嫌な部分から目を逸らせないということです。そういう毎日を過ごした結果、自然な形でマインドセットができたように思います。気持ちがスッキリしているので、プレーに関する感情の質感が変わりました。余白があり、余裕を持って物事を受け止められている実感があります。

メンタルやマインドの部分は変えたいと思ってすぐに変わるものではないので、怪我の巧妙とはこのことかもしれません。思いがけず得られたものによって、良い時間だったと振り返ることができたこの一ヵ月でした。

ちなみに冒頭の例えは、BUMP OF CHICKENのsupernovaから拝借しています。恒星が燃え尽きる前の大爆発が、地球から見ると新しい星が生まれたように明るく見えることを「超新星=supernova」というわけで、君と僕の存在の確かさと不確かさを歌う曲にこのタイトルをつけるのって絶妙ですね。
一方から見えたものが、もう一方では…

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