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ラブソングを歌えるような

10代の頃はとにかくラブソングが嫌いだった。みんなは花畑に暮らしていて、自分は砂漠にテントを張っているんじゃないかというくらいには対極に感じていて、ラブソングを聴き始めたら終わりだななどと思っていた。捻くれがすぎて、恥ずかしいけれど当時は真面目にそう思っていた。

今も積極的に聴くかと言われたらそうでもないけれど、ラブの矢印が「対 個人」ではなくても美しい風景だとか愛でたい思い出だとか、もっと大きな物事を包むような気持ちに向けられていることを知ってからは、それを歌える心も思いが溢れたような詩も、素晴らしい素敵なものだと思えるようになった。祈りとか願いも、ラブソングに入るのだろうと思うと特定の人に重ねて聴くことだってある。

自分が大学生だった7〜8年前はまだサブスクとCD読み込みが半々くらいの時代で、サークルの仲間うちでUSBに音源を入れて渡しあったり、ライブハウスで知り合った大人の人がCDを貸してくれたりしていた。若手のバンドの自主制作の音源なんかがそういうやり取りのメインだったりして、今ふと頭をよぎっても配信はされておらず、懐かしさという形のない実態だけで流れる曲があったりする。

先日車を運転していたときに、ふと思い出だした曲があった。「このメロディーなんだっけ…歌詞がこんな感じだったような」と検索エンジンに打ち込むと、久しぶりにSound Cloudのオレンジ色を見つけ、ついでに目当ての曲にも辿りつくことができた。

この曲を聴いていたあの頃は、ラブソングを聴かない聴けない歌えない自分のみたいな捻くれ者に差し出された手のように感じていたはず。

久しぶりに聴いたらどうだ。

ラブソングが概念や比喩だとしたら、自分で自分にそれを歌えないことには誰かに歌うことはできなくて、それって自分を大事にすることが遠回しに周りの人を大事にすることに繋がるのかな?とか、(そういう文脈の曲ではないのかもしれないけれど)ラブソングを歌えることで、「あなたもわたしも大丈夫ですよ」という意味にもなるのかな?とか、そんなことを思った。

今年の春、自分の周りには新しい場所を創ったり向かったりする人達がいて、みんな悩んだり決断したり一つ一つ過程を辿ってきたのだと想像するとなんだかグッとくるものがある。
今はまだ正解かわからない方角に踏み出す勇気、歩幅は人それぞれ違ってもその一歩は等しく尊い。
だからこそ、友人だったり同僚だったり、自分も相手もそれぞれの立場や角度でしかいられないけれど、関わりの中でその選択を正解にしていきたいと思う。

そのために自分も自分にラブソングを歌えるくらいの丈夫さをちゃんと持っていたい。大がつくくらいの丈夫さを。

#Gateballers
#ラブソングを歌えない君に

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