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テクノロジーとしてのアナキズム

人類が火星まで有人飛行を行ったことはない。だが、そのことを根拠に未来永劫まで人類が火星に到達することはないと主張する人はいない。それが10年後なのか、100年後なのかは意見が分かれるとは言え、なんらかのイノベーションによってテクノロジーが発達すれば、そのうち人類は火星に到達するだろうと、誰もが考える。

一方で、社会の組織化方法となると、誰もが極端に前例主義的になる傾向がある。「これまで、国家のない大規模な社会など存在しなかったのだから、これからも存在できるはずがない」とか「資本主義以外の社会がうまくいったことなどないのだから、これからもうまくいくはずがない」といった類の言説は、違和感のないものとして人々に受け入れられている。

※実際のところ、以下の参考文献によれば国家のない大規模な社会はあったという考古学的証拠はいくつか見つかっているらしい。だが、今回の記事では、「いやいや存在してたからwww」と論破して悦に入りたいわけではない。僕の目的は別にある。

これ自体はかなり不思議な現象だと思われる。

人々を組織化する方法というのは一種のテクノロジーであり発明品だ。国民国家、株式会社、協同組合、町内会などといった概念は石器時代には存在していなかった。

石器時代の人々からすれば、1億以上の人々が同じ国家(とやら)で暮らしていると想像し、同じ紙切れに価値があると信じて馬車馬のように働き、同じ国家に対して税金を支払うなどという状況は、馬鹿馬鹿しい夢物語だと感じたことだろう。車が空を飛ぶ未来よりも、非現実的に思えるのではないだろうか。

しかし、誰もが知るように僕たちはそれを成し遂げた。それは国民国家や貨幣経済、中央銀行、憲法、複式簿記といった発明されたテクノロジーによって、である。

ならば、これから僕たちが、全く新しい概念上の発明品を生み出し、前例のない事態を成し遂げることはないと、どうして言い切れるだろうか?

人を組織化するために新しいテクノロジーが登場しないと、どうして言い切れるだろうか?

それは「人は火星になんて行けないよ?だって今まで行ったことがないんだから」と言っているのと同じようなものだろう。

僕はアナキズム的な社会を望んでいる。誰かにあれこれ命令されるようなことがなく、警察と刑務所もなく、誰とも対等で、尚且つ円滑に運営されるような社会だ。そのような社会など不可能であると、多くの人は言うだろう。しかし前述の通り、そのために必要な概念上のテクノロジーが絶対に生まれないと言い切ることは不可能だ。

アンチワーク哲学は、そのようなテクノロジーの理論的バックボーンとなることを見越して構築されている。しかし、あくまでそれは理論に過ぎず、実践的なテクノロジーではない。理論だけではなくテクノロジーまでも僕が思いつけたらいいのだけれど、できるだろうか? やってみたい気はするのだけれど、人生は短い。

誰かいいアイデアないだろうか? その発明は相対性理論よりも社会を変えるはずだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!