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ニートはニートを救い、ニートに救われる

この前、ニートマガジンのオフ会に行った。

オフ会と言っても居酒屋やレンタルスペースなどを使ったわけではない。公園にレジャーシートを敷いてそれぞれが好きなものを持ち込むピクニックスタイルである。僕は割り勘するのが好きではないし、余計な金を使うのも好きではない。なのでこのスタイルは性に合っていた。

いろんな話をした。鹿の捌き方の話。法然のカリスマ性の話。ジーンとミームの話。クラフトビールの話。エネルギー地産地消の話。ちいかわの話。出版の話。などなど。

当然、ニートマガジン自体の話にもなった。ニートマガジンの役割や、参加者の属性などの話である。もっとも、議論の大半は僕がトイレに行っているうちに済まされていたので、この話題は僕にとって消化不良となってしまった。そこで、この場を借りて消化してみようと思う。

ニートマガジンへの参加はニートにとって、社会参加の喜びを思い出す(あるいは知る)ためのリハビリとして位置づけることもできる。ニートは多かれ少なかれ、社会参加に嫌な思い出がある。学校でいじめられたこと。パワハラ上司に苦しめられたこと。資本主義のシステムの中で理不尽な労働を強いられたこと。などなど。結果的に、社会参加なるものは例外なく悪であるという結論に至ったニートも少なくないだろう。

しかし、ニートはまた思い知るのである。完全なる孤独もまた、社会参加と同じく不快感を掻き立てることを。バルザックの言う通りであった。

「孤独は良いものだ」ということを我々は認めざるを得ない。しかし、「孤独は良いものだ」と話し合うことのできる相手を持つこともまた、一つの喜びである。

まったく人とかかわらずに生きていくことは耐え難い。なら、ニートが幸福をつかみ取るためには(労働という形態を取るかどうかは別として)社会参加のためにドアを開かなければならない。

彼にとってドアの向こう側は魑魅魍魎の世界である。かつて彼を苦しめた人間関係という名の怪物が、そこら中に跋扈しているのだから。「大丈夫、怖くない・・・」と手を差し伸べてきたコミュニティですら、その実態はドロドロしたムラ社会であり、充満する空気に逆らった途端に村八分を食らう、なんてことも十分にあり得る。

そのためニートの少なくとも一部は、存在するかどうかもわからない善良なトモダチグループを探すために化けの皮の内側をチェックして回るくらいなら、ドアを閉め切って(孤独の不快感を見て見ぬふりしながらであっても)安全に過ごす方がいいと考える。

ニートマガジンは、参加者である僕のひいき目で見れば、(少なくとも今のところは)善良なトモダチグループと呼んで差し支えないように思われる。参加者は多かれ少なかれ怪物に嫌気がさし、そこから逃れてきた人物である。彼らは知っている。人間は誰しも自らが怪物になることを望まないが、それでもなお怪物は生まれることを。怪物警戒メソッドを周知徹底しようとする心がけこそが、ムラ社会とそこに暮らす怪物を生み出す罠であることを。その結果、あらゆるメタレベルの人間関係技術を動員して(あるいはまったく動員しないことによって)、彼らは怪物にならないように心掛けているように見えた。

では、ニートマガジンこそが、全ニートの最後の拠り所となり得るのか? ニートマガジンは誰一人置いていかない慈善活動としてスタートしたわけでもない(別に営利活動でもないのだが)。ないのだけれども、あえて今回はニートマガジンが全ニート救済プロジェクトになり得るのかどうかを考えてみようと思う。

結論から言えば、現状の形であれば、なり得ない。僕はオフ会の参加者の大半が僕より若く、ほとんどが20代であることに気が付いた。おそらくニートマガジン自体の年齢構成とも概ね一致しているのだと思われる。別に年齢制限を設けているわけでもないのだが、結果的にそうなっている。なぜだろうか?

年齢を重ねていることは1つの負い目である。以前僕は楽器屋にはへたくそな高校生か、プロ顔負けのおっさんしか来ないことを指摘した。おっさんは一定の熟練度に達していて、なんらかのコミュニティで一定の地位を築いているべきであり、新参者としてどこかに参加するのは不適当・・・といった価値観は、おそらく広く蔓延している。その結果、ニートマガジンなるよくわからないコミュニティに参加するハードルは、年齢を重ねるごとに高まっていくはずだ。

また、「人間関係はゴミだ!」と社会から逃れてきてわずか数年程度である20代のうちなら、「やっぱり人間関係って必要だわ」と前言撤回するハードルもさほど高くない。しかし同じスローガンを数十年にわたって掲げ続けてきたなら、いきなりかなぐり捨てるのは至難の業だろう。それは自分の人生の否定に等しいのだから。

いや、彼は言葉の上では「自分の人生は無意味だった」と認めるにやぶさかではないかもしれない。しかしそれでも彼は「無意味な人生を歩んできたことは仕方なかったし、そうすることには一定の合理性があった(あるいは遺伝子ガチャや親ガチャに外れたのだから当然だ)」という最低レベルの自己正当化は行っているはずだ。その正当化はおそらく生命維持における必要不可欠な自己正当化である。これを行わない人間に残された選択肢は、死か、発狂かしかあり得ない。つまり、前言撤回して社会参加するためには、自分の生命をかろうじて繋ぎとめてきた命綱を手放すほどの覚悟が必要なのだ。

とはいえそれは不可能ではない。「なーんか俺、どうでもいいことに数十年を費やしてきたなぁ」とあっけらかんとした気持ちで、過去の価値観を粗大ゴミに出すことは不可能ではないのだ。そうすれば彼は、部屋中を掃除し終えたときのような晴れやかな気分で外に出かけることができる。そして、いけしゃあしゃあと若者コミュニティに参加することだってできる(実際のところ「若いうちならなんとかなる」理由は、みんなが「若いうちならなんとかなる」と考えているからだと思う。つまり本人と回りが「おっさんでもなんとかなる」と考えるなら「おっさんでもなんとかなる」のだ)

もちろん、きっかけとなる一歩は必要である。では、それはなんなのか? ニートマガジンの参加者たちは『ラフ・メイカー』のごとく、鉄パイプでガラスを割ってベランダから侵入して、引きこもりのおっさんを笑わせればいいのだろうか?

わからない。だが、いずれにせよ、彼の生活になんらかの侵入者が必要なのは間違いない。物理的にラフ・メイカーが侵入しないのだとしても、少なくともインターネットストリートで彼の脳をたたき割るような衝撃をもたらす何かと出会うことが必要なはずだ。

(どうでもいいのだけれど、鉄パイプって人がイメージしているほとそこら中に転がっているわけではない気がするのだが、ラフ・メイカーはどこから鉄パイプ拾ってきたのだろう?)

とはいっても、最後にアクションを起こすのは紛れもなく本人だ。自発的なアクションに欠かせないものは、心理的安全性である。それは「行動しなくても構わない。行動しなくてもなんの罰も受けない。ただし、もし行動したとすればそれを喜び、受け入れ、サポートしてくれる人がいる」といった類の心理的安全性である(もちろんそれは、今の社会からはほとんど欠けてしまっている)。

ニートマガジンにできることと言えば、この心理的安全性を提供することくらいだろう。もし来てくれるなら喜ぶ。しかし、来なくてもいい。気に入らないときは、あるいはいつしかニートマガジンが魑魅魍魎の集団に成り下がってしまったときは、いつ去ってもいい。そうした心理的安全性を提供すること以外は、きっと何もできない。

さて、ここまで「救う」だなんて大仰な表現をしてしまったが、参加したところで社会的になにかが大きく変わるわけでもない。彼がインターネット上に記事をアップするようになったとて、周りから見ればこれまでと変わることなくニートである。一夜にして人生がひっくり返るようなこともない。ただ参加する。それだけである。

そもそも、ニートマガジンにニートが参加したとき、救われるのはニートなのか、それともニートマガジンなのかという問題もある。ニートマガジンはニートを必要としている。文章を書いてもらうことだけを言っているのではない。ニートが居場所を必要とするのと同じように、ニートマガジンはニートに居場所を提供すること自体を欲しているのだ。要するに、ギブでもテイクでもなく、ギブ&テイクでもなく、互いにギブ=テイクなのだ。

救うつもりが、救われる。どっちともつかない関係性こそが、人間関係と呼んで然るべきものだろう。議論があっちこっち行ったし、たいした結論は出なかった。だが、あんまり小難しく考える必要はないのかもしれない。

ともかくオフ会は楽しかった。少なくとも僕は救われた。またやりたいと思った。僕がその幸福を味わえるだけで、ニートマガジンは素晴らしい役割を果たしてくれていると思う。

※そのうちニーマガ冊子版vol2も出す予定らしい。次はイラストとか漫画とかもいいよね、みたいな話にもなっている。参加したい方はぜひ、いまのうちに!

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!