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生産性ってなんですか?【アンチワーク哲学】

最近ふと気づいた。生産性という言葉は二つの意味で使用されているが、両者の用法が混同されていると。

まず一つ目の意味は、「ダイコン一本を収穫するために費やしたコストの比率」的な意味である(ここでいうコストとは金や労力や資源など)。十時間費やしてダイコンを一本生産するよりも、十時間でダイコンを二本生産したほうが生産性が高い。あるいは、五時間で一本生産する方が生産性が高い。といった意味の生産性である。こちらを物理的生産性と呼ぼう。

もう一つの意味では「金儲けの効率」である。一時間働いて千円手に入れるよりも、二千円手に入れる方が生産性が高い。あるいは三十分で千円手に入れる方が生産性が高い。といった意味での生産性である。こちらは金銭的生産性と呼ぼう。

実を言うと、この二つは同じようで違う

物理的生産性は文字通りの生産の指標であると言える(真の意味で無からなにかを生産したわけではないというという性格の悪いツッコミはひとまず無視する)。が、金銭的生産性は異なる。なんらかの価値が生産されているかは度外視され、金を稼いでいるかどうかだけにフォーカスされる。

たとえばアイルランドやルクセンブルクは金銭的生産性という意味での労働生産性トップ国の常連である。しかしその実態はタックスヘイブンとしてグローバル企業の利益が計上されているだけに過ぎず、逆立ちしてもなにかを物理的に生産したとは言えない。それなのに生産性という言葉はあたかもなにかを生産しているかのような印象を与えてしまう。

あるいは、不動産や登記に関する手続きには謎めいた「事務手数料」なるものが多数存在し、数万円と掠め取られていくことは珍しくない。詳しいことは知らないがそこで発生する事務作業に数万円の価値があるとは思えないが、これも、あたかもなにかを生産しているかのように見えてしまうのである。

さて、ここで奇妙な現象が生じていることにお気づきだろうか。

物理的生産性の上昇は、おおむね規模の経済による大量生産を意味する。そして、それはライバル企業との価格競争により、最終的に利潤率を低下させていく。つまり、物理的になにかを生産することは、金銭的生産性に必ずしも結びつかない

一方で、タックスヘイブンや事務手数料のようなケースは、紙切れ以外になにも生産していないし、コストは最小限である。謎の手数料も同様だ。つまり、物理的生産をしていなければいないほど、金銭的生産性が高いという逆説が生じている。

たとえばイオングループは食品を提供するというビジネスによって社会に物理的な貢献をしているわけだが、その営業利益の大半は金融事業やテナント賃料から成り立っている。ポイントをちらつかせてクレジットカードの勧誘をやっている方が、まじめに野菜や肉を売っているより金儲けできてしまう。このような状況は、おそらく多くの企業が直面している事態なのではないだろうか。

金銭的生産性を高めるための究極的な方法とはなにもせずに金を得ることであり、最も理想的な方法は合法的略奪である。もし、全国民に毎月の収入の50パーセントを振り込ませるように指示し、無視した者を無作為に日本刀で斬りつけることを許可する国家資格が僕だけに発行されたなら、おそらく僕はなにもせず毎月膨大な収入を手にし、僕の金銭的生産性は日本一になるだろう(僕の労働は、年に数回だけ見せしめに誰かを斬りつけに行く程度だ)。

もちろん、ここまで極端な例はないが、国家と結託して利益を吸い上げるようなビジネスは、ダイコンを生産する行為よりは、日本刀で脅しつけて金を毟り取っている行為に近いように思われる。そして、現代における労働はどんどん合法的略奪やその取り巻きとして組織化されつつある

観葉植物や卓球台、コーヒーメーカー、インスタントのお味噌汁、自己啓発書でいっぱいの本棚、その他チョコザップばりの福利厚生で埋め尽くされたおしゃれオフィスで、週休三日制やフリーアドレス制、フレックスタイム制を実践する人々は「私たちこそが、高い生産性によって理想的な働き方を実現する最先端企業です」とでも言わんばかりの涼しい顔でMacBookのキーボードをたたく。それをみて僕たちは、「素晴らしく生産性の高い会社だ・・・それに比べてうちの会社は・・・」と嘆くのだ。しかし、その状況を実現しているのは事実上の合法化された略奪であり、せっせと働く派遣スタッフからのピンハネだったりするのだ。もし嘆いている人々がおしゃれオフィスで働きたければ、彼らもまた派遣スタッフからピンハネするか、コールセンターを運営するか、胡散臭い広告ビジネスで一発あてようととするだろう(小資本でこうしたビジネスへ参入し運よく若くして財を成した社長が、ブルーカラーを嫌悪しホワイトカラーにあこがれるも大企業に就職することはかなわないFラン大学生を集める構造を、僕は「一発逆転なんちゃってホワイトカラー」と呼んでいる)。

それなのに「生産性」という言葉が使われているせいで、あたかも彼らが社会に多大なる貢献をしているのだという勘違いが生じてしまう。グレーバーは『ブルシット・ジョブ』の中で、現代の資本主義はマルクスやアダム・スミスが思い描いた意味での資本主義ではなく、そこに封建制(略奪品の分配を通じてヒエラルキーを構築していくという意味での)が折り重なっている状況にあると指摘した。おそらく僕たちの頭で思い描く現代社会は、効率的になんらかの価値を提供した人が金を稼ぐという、古き良き(?)資本主義のイメージのままである。ややこしいのは、実際にまだその側面はわずかながら残っているという点にある。もうほとんど失われているはずだが、そのイメージが強力過ぎて、また「生産性」なる用語が依然として使用され続けていることで、折り重なった封建制の要素(近年ますます増大している)が不可視化されているらしい。

物理的生産性と金銭的生産性。どうやらこれを分けて考えるべきときが来たようだ。というか、もはや生産性という言葉を使わない方がいい気がする。より正確な言葉は「収益性」だろうか。そして、収益性が最も高い方法は合法的略奪である。暴力の独占装置としての国家のお墨付きをもらって合法的に略奪することが、金持ちになるための最短ルートである。それは封建制とほとんど同じである。

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