見出し画像

論破してくれと言われたので、論破します

僕の記事にいいねしてくれた人のページを覗いてみたら、「論破してくれ」というタイトルの記事が上がっていた。

うん。これは、ちょっと気になる。

どうして論破して欲しいのだろうか? もしかして書いていることと真逆のことを考えているのだろうか。

「私を止めてくれ」ということなのだろうか?

画像1

ならば、僕が介錯をしようではないか。




まず、この記事の主張は…?

(1)リサイクルしたり、エコバッグを持ち歩いたりする個人のエコ活動は無駄である。

(2)社会的影響力の大きい企業が問題に取り組まなければならない。

(3)個人にできることは、企業に発破をかけること(たぶん、CSRをチェックして環境に配慮した企業の商品を買ったり、投資先を決めたり、株主総会で発言したりすることを意味するのだと思う)である。

…ということで概ね問題ないと思う。

ここは暗黙の主張が付け加えられるように感じる。

(4)十分に企業へ発破をかければ、環境問題は解決する。

(そりゃあそうだ。「個人のエコ活動は無駄だから企業に働きかけるべき…それも無駄だけどねwwww」なんてシニカルな主張しているわけではないだろう)

僕の意見とは真逆なので、これは論破し甲斐があるというものだ。


論破フェーズ

CSRを基準に消費や投資をしたところで、企業はCO2排出が必要な作業を下請けに丸投げして「当社はスコープ1.2においてCO2排出をゼロにしました。さぁ当社の商品を買ってください」と言わんばかりに、環境負荷を隠して消費を呼び込もうとする方向へ必然的に向かう、と僕は考える。

そもそも利潤追求が株式会社の宿命である以上(利潤がなければ経営者と従業員が露頭に迷い、株主は金をドブに捨てることになる)、「環境負荷が少ない企業が消費者に選ばれるらしい」という風潮になれば、「まずは何も身を削らずに、環境保護に取り組んでいる体裁を整えよう」と株式会社は考えるはず。なぜなら、環境負荷を減らすためには多大な投資が必要で、利潤を削る必要があり、株式会社は利潤を削ることを嫌うから。

例外的に株式会社が利潤を削るのは、再投資するとき…つまり未来にさらなる大きな利潤の可能性が見出せるときだ。

投資を回収して利潤を得るためには? 当然、消費が必要だ。消費が行われる時点で、その商品がいくら環境に配慮していようが、環境に負荷がかかる。

つまり、エシカル消費とかESG投資とかSDGsとかそういうものは、いかに環境負荷が少ないフリをしながら(あるいは最小限の環境投資で済ませながら)、消費(必然的に環境を破壊)させるか? という欺瞞的なゲームに過ぎない

中には本気で環境を憂いている企業もあるだろうが、これは一握りの変態的な個人であり、みんなにその姿勢を求めるのは無理な注文だ。利潤追求の力学は明らかに環境破壊の方向に作用している上、環境保護を行いながら利潤をあげるのは、ほぼ曲芸だ。

つまり、企業に発破をかけるだけでは十分な環境保護活動は行われないと僕は考える。

「ソーラーパネルを作ったり、長持ちする服を作ったり、ケアやサービスを充実させたりする方向に、発破をかければいいのでは?」という反論は一考に値する。確かに一部の企業はそれに成功しつつ、利潤を得られるサスティナブルなビジネスをデベロップメントするかもしれない(ビル・ゲイツとか、日本で言うと落合陽一みたいなテクノロジーオタクの人たちは、この方向で頑張っている)。

しかし、そんなアクロバティックな業態変換が、先進国から後進国まであらゆる場所で成功するとは、僕にはどうしても思えないのだ。

「環境保護しながら金稼ぐのは難しいし、環境保護を装いながら環境破壊してメイクマネー💰」という方向に大多数の株式会社が向かうのは当然の帰結のように見える(逆にどう考えれば、そう思えないのか、僕には理解できない)。


「じゃあ代案を示せ」に対して

本気で環境保護を目指すなら、まずはユニバーサルベーシックインカムを実現すべきと僕は考えている。生活と労働が切り離されれば、利潤追求の動機が薄れ、ゲームに作用する力学を弱めることが可能だ。

そして、徐々に一般人の生活から労働が姿を消していけば、コンビニ弁当を腹に詰め込んだり、スーパーで野菜を買ったり、ユニクロのセール品を買う必要もなくなっていく。自分で作ったり、修繕する時間がたっぷりあるからだ。

消費が減っていけば、大量生産・大量消費の構造が機能しなくなり崩壊(つまり株式会社の崩壊)。そして、消費しない社会‥つまり金を使わずに地産地消で全て賄う社会が実現できれば、比較的(あくまで比較的だが)環境負荷は少なくなる。あわよくばハイパーインフレが起きて、お金がゴミになり、経済を崩壊させられる。ルドガーブレグマンが『Humankind』に書いた通り人間は勝手に助け合う傾向があるので、レベッカ・ソルニットが言うような『災害ユートピア』が立ち現れるかもしれない。

とは言え、ユニバーサルベーシックインカムは全世界レベルの取り組みだ。個人の取り組みとしては、消費をしないこと…つまり、金を使わずに自給自足に近づいていくことが理想的であると僕は考える。仮に全員がこれに取り組めば、株式会社は利潤をあげられなくなり、システムを崩壊させられる。

もちろん、「全員が自発的に自給自足に取り組む」というのは現実的な未来ではないが、消費しないライフスタイルが少しでも広まっていけば、GDPは下がり、景気が停滞していき、資本主義経済の崩壊へと向かっていくことができる。これはこれで素晴らしい。

(今の経済システムが崩壊して人間が生き残れるわけがないと思うかもしれないが、僕は「なんとかなるやろ!」と思っている。これは実験のしようがない僕のイデオロギーであり宗教なのだが、同時に逆を主張するのもイデオロギーであり宗教なので、神々の戦争はやめにしておこう。マックスウェーバーに敬礼)

長くなったが…結論。個人として取り組むべきことは、まず自給自足を達成することと、それを周囲に啓蒙していくこと(T.A.Zのような活動も、バーニングマンも、山奥ニートもいいよね!)。同時進行でベーシックインカムを実現するためにデモを行ったり、ビラを撒いたり、ネット上で暴言を吐いたり、暴動を起こしたり、政治家の顔面を殴ったり、国会議事堂に生ゴミを投げ込んだり、ウォール街を占拠したりする活動(雀の涙の投票行動も‥まぁ気分転換にいいかもね)に取り組むことだと僕は考える。

この人がいうようにエコバッグを買うのは無駄だが、CSRも、エシカル消費も、ESG投資も、SDGsも無駄だ。消費活動を変えても、企業は体裁を取り繕うからだ。

マーク・フィッシャーが『資本主義リアリズム』で言ったように資本主義社会では「すべては広報に消えていく」のだ。


まとめると

(1)リサイクルしたり、エコバッグを持ち歩いたりする個人のエコ活動は無駄である→それは無駄、でも他にできることはある。

(2)社会的影響力の大きい企業が問題に取り組まなければならない→本気で取り組むことはシステム上ほぼ不可能。一部の企業は取り組むが、それを全企業に求めるのは、現実的ではない。

(3)個人にできることは、企業に発破をかけること(たぶん、CSRをチェックして環境に配慮した企業の商品を買ったり、投資先を決めたり、株主総会で発言したりすることを意味するのだと思う)である→それも無駄。なぜなら企業は体裁を取り繕うことに終始するから。

(4)十分に企業へ発破をかければ、環境問題は解決する→無理。

これで論破したことになっただろうか? 全くもってファクトフルネスではない僕の感想でしかないのだが、それでも僕が言っていることの逆を主張することの方が難しいと思う。

つまり「エシカル消費やESG投資を行えば、ほとんどの企業は利潤を度外視して、誠心誠意、環境問題に取り組む」とか「環境保護と利潤追求を両立することはたやすい」とか「両立が難しくても、地球のために、ほとんどの企業は努力するはず」とか「見せかけの環境保護活動を行う企業は、少数派である」とかそう言う主張だ。

人間社会に生きている人が、こんなことを真面目な顔で主張できるとは、僕には思えない(というか、この辺りを論破して欲しいなら『人新生の「資本論」』を読めばいいと思う)。

ベーシックインカムや自給自足といった僕の代案については賛否両論あるだろうが、論破したいなら、好きに論破すればいいさ。

あと「そもそも環境破壊はそんなに深刻ではないよ笑」と思っている人とは、たぶん会話が成立しないのでよろしく。


結局、これを求めていたのかは不明

件のnoteを書いた人は、たぶんこんなレスポンスを求めていたわけではない。

おそらく、環境問題を個人の責任へと矮小化する風潮に逆張りをするためにあえて「個人の取り組みは無駄」と主張をしていて、本音では「無駄というのは言い過ぎだなぁ‥」と考えているのだと思う。

環境問題の大部分が企業の責任であり、企業が取り組むべき問題であると主張しているものの、「だからと言って僕が個人の営みを否定しているわけではないのだ!僕のことを誤解しないでくれ!」という涙混じりの弁明が「論破してくれ」なのだと僕は受け取った。

その上で、ちょっとアスペルガー気味に解釈して、あえてその斜め上から論破してみた。いかがだろうか?

逆張りに対して、その斜め上から攻めたので、混乱に混乱を重ねてしまった。もはや何重のメタ思考なのか訳がわからなくなってきたが、僕が言いたいことは伝わるのだろうか?

否定的なことを書いてしまったが、決して僕はこの人を否定しているわけではない。環境を守るための活動や啓蒙を行おうとする姿勢は、間違いなく素晴らしいものだ。だが、それだけでは足りないと僕は考えているわけだ。

この記事が参加している募集

SDGsへの向き合い方

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!