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人生を説明する方法がわからない【出版社を作ろう5】

出版社創世物語は大きく分けて2つに分類される。

1つ目は、出版サラブレッドコース。出版社の編集職や、取次の営業、雑誌のライター職で培った経験やコネクションを活かして出版社を立ち上げるパターンである。

2つ目は、弱者男性の星コース。高校中退後、実家でニートを続けていた弱者男性が一念発起して出版社を立ち上げるといったパターンである。

前者は物語としての面白みには欠ける一方で、業界知識やコネクションを活かすため、比較的リスクが少なく手堅い起業である。出資も集まりそうな印象がある。

後者には手堅さのかけらもない。だが、何も持たない弱者男性が夢を掴むというストーリーにはついつい手に汗を握ってしまうのが人情である。人の心を打って、思いも寄らぬ救いの手が差し伸べられたりしそうだ。

もちろん、そんな簡単な話ではないだろう。業界経験があるからといって簡単なわけではないし、弱者男性だからと言ってみんながホイホイ助けてくれるわけでもないはずだ。しかし、僕はないものねだりであると自覚していてもなお、こういう人たちに憧れずにはいられないのだ。

僕は業界経験を持たないだけではなく、「持たない」ことすら持たない

自分でいうのもアレなのだが、僕はそれなりに恵まれた人生を歩んできた。

(身バレを恐れて、僕は今まで個人特定につながる情報は極力控えてきた。が、自宅住所で会社を立てるのなら身バレもクソもないので個人情報を垂れ流そうと思う。)

実家はそこそこ金持ちで、悪くない大学を出て、半年ほどフリーター期間があったとは言え、その後、一般企業に正社員として就職。しばらくして彼女と結婚。その1年後に第一子が誕生。その1年後にマイホームを買った。

弱者男性が憧れてやまない、野原ひろし的ライフスタイルである。

これだけでも十分に恵まれた人生に見えるだろうが、それだけではない。

僕は2022年に転職をした。転職先は自分の父親が経営している10名規模の中小企業である。僕は皇位継承権第一位の跡取りとして入社したのだ。僕は社長の息子というだけで、前職の倍の給料をもらえることになった。

しかし、入社して半年が経った頃に体調不良で会社を休みがちになり、挙句、適応障害と診断されて休むことになった。

「なぜ、適応障害になったのか?」を説明するのは難しい。ここまで説明した通り、一見すれば順風満帆な人生だからだ。しかし、周りの人々はそれでもなお説明を紡ぎ出してくれる。

例えば父親や会社の同僚たちの説明はこうだ。「彼は下積みとしてハードな力仕事にも携わっていた。これまでデスクワーク中心だったから、そのギャップが辛くて耐えられなかった」。

確かに僕は肉体労働には向いていない。しかし、それ自体が嫌いなのではないし、むしろ気持ちよく汗をかくことは好きだ。趣味でやっている農業においても、農家さんに「耕運機使う?」と聞かれても「体動かしたいので」と好き好んで鍬を振るって土を耕しているくらいである。「肉体労働が嫌で病んだ」というわかりやすいストーリーに回収するのには違和感がある。

別の人の説明ではこうである。「会社は令和時代のいまも、FAXや手書きメモ、現金による集金といった旧態依然としたシステムで成り立っている。その効率化を図り、イマ風の会社に変えようにも聞く耳を持たない父親の態度に嫌気がさした」。

完全に的外れではないものの、芯を食ってはいない。確かにいくつかの提案を行い父親に却下された経験は、僕にとってストレスであった。しかし僕は「効率」をさほど重視しているわけではないし、イマ風の会社に憧れは一切ない。

じゃあ何が原因なんだ?」と読んでいる人はイラつくかもしれない。だが、一番イラついているのは僕本人である。不満を感じているが原因を説明できないことは、人間にとってこれ以上ないストレス要因だろう。適応障害の原因を説明できないことそれ自体が、適応障害の原因なのだ。

とはいえ、間に合わせの説明をすることはできる。僕は「血のつながった息子が会社を継いだ」というシナリオ通りに振る舞う役者であることが耐えられなかった。父親は口では「自分が思うようにやったらええ」と言うが、この言葉が信用ならないことは誰もが知っている。その真の意味は「(俺が満足するように)自分が思うようにやったらええ」である。

もちろん、異業種から飛び込んできた僕がいきなり何かに着手しようが、それは門外漢特有の頓珍漢な思い込みに突き動かされた奇行に過ぎないという側面もあるだろう。郷に入れば郷に従うべきだという意見もあるだろう。子どもの生活のために多少は我慢すべきだという人もいるだろう。

だが、そんなことはどうでもよかった。僕にとって重要だったのは「僕が耐えられない」と感じている事実だけである。

正直、適応障害と診断されたあと、「もう死んでも良いかな」と思うことは何度かあった。だが、その度にある言葉を思い出した。

終わらせる勇気があるなら
続きを選ぶ恐怖にも勝てる

BUMP OF CHICKEN『HAPPY』

確かにそうだ、と思った。じゃあ、続きを選ぼう。好きなことをやろう、とも思った。

そして考えた。「好きなこと」ってなんだろう。それを知るために、とにかく休みの間は好きなことをやった。農業、料理、日曜大工、育児、読書、noteの執筆、Amazonでの素人出版。

どれも仕事にできそうにもなかった。僕には家族がいる。家族と共に暮らすことも、僕の「好きなこと」なのだ。家族を捨ててまで追いかけたい目標などない。僕は家族と共に生きていきたい。そのためには金がいる。しかし、金になりそうな「好きなこと」が思いつかない。僕が選んだ「続き」とやらは、ジリジリと削り取られていく時間の中で、「いや、今は好きなことをするんだ!」と焦りから目を背けようとして、背けられないだけの時間であった。

しばらくして思い立った。たかだか1週間ほど前の話なのだが、きっかけは覚えていない。とにかく「出版社を立ち上げよう」と思ったのだ。

僕は3年ほどnoteを書き続ける中で、1つの哲学体系を構築した。アンチワーク哲学である。

僕にとってはこの哲学を広めることは人生の目標になっていた。そうすることで狂った世の中を変えられると確信しているからだ。しかし、その活動を生活の糧に結びつける方法がわからなかった。

どうして今まで思いつかなかったのか?とすら思う。出版社を自分でやればいい。簡単な話じゃないか。

確かに僕が出版社立ち上げを思い立つまでのストーリーを説明することはむずかしい。先述の通り僕は弱者男性でもなければ、出版サラブレッドでもない。一見すると自分の人生に満足した野原ひろしである。適応障害というストーリーが付与されたことは1つのアクセサリーになるだろうが、そもそも僕は適応障害という病名にピンときていないので、そのことを振りかざそうとも思わない。ついでに文学青年でもない

僕を突き動かすのは、自分が構築したマイ哲学を世の中に問いかけたいという、訳のわからない理由である。もちろん哲学科出身でもないし、遠い親戚にニーチェや西田幾多郎がいるわけでもない。

おまけにアンチワーク哲学も、一見するだけでは理解不能である。そもそも一見するだけで理解可能な哲学など哲学と呼べないだろうが、アンチワーク哲学は「禁欲系ね…」とか「頑張れ系ね…」とか「シニカル系ね…」とか大まかにカテゴライズして無理やり理解したと思い込むことすらむずかしい

要するに、僕の人生をわかりやすく説明するストーリーは、まだこの世界に存在していない。シェイクスピアは世界に存在するストーリーを36種類に分類したらしいが、たぶん僕の人生はどれにも当てはまらない。そういう男を見たとき、多くの人はただのイタい奴とレッテルを貼って通り過ぎようとするだろう。

だが、それもいい。「理解不能」をとことん欲望すればいい。僕が望むことは自らの存在を世に知らしめ、理解不能のレッテルをスタンプラリーのように集めて回ることである。アンチワーク哲学は理解されることを望んでいるのだけれど、大多数の大人にとって耳障りな理屈であることは間違いない。どうせ、そういう人々は理解しない。ただ、オセロがひっくり返れば、あれよあれよとひっくり返るだろう。

そういえばこんな言葉もあった。

人に説明できるような
言葉に直ってたまるかよ

BUMP OF CHIKEN『GO』

言葉に直らないから哲学にするのだ。幾晩もかけて、哲学は語られるのさ。

ところで、ようやく社名が決まったので、そろそろ登記しようと思う。ではまた。

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