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褒められるために頑張るから、いつかの自分のために経験するに変わると世界が優しくなる

褒められたいを手放したい。そう思うようになったのはここ1年くらいの出来事。自分がようやく変わり始めた実感、そして変わり始めたことによるいろいろな葛藤に今向き合っていると思う。

ネタをください企画、第7弾。何個めかもはやわからない&まだネタ残っているネタの宝庫まーさんからのお題で【ハードな環境でも頑張ってこられた理由】ハードな環境に生きている人って実はハードな環境であることに気が付けてないことあると思うのだ。
Thanks まーさん

あなたも私もLet’s ハードに頑張ろう(強制)


ハードな環境でも生き続けられた理由、それを一言で書くなら、それがハードだと気が付いていなかったからだと思う。その世界しか知らなかったし、【その世界がすべて】だと思ってきた。

私にとってのハードな世界、それは相手に褒められるために頑張るけれど、本当に褒められるかどうかはわからないまま頑張らねばならない世界。成果がすべてで、少しでも目標に達しなかったらすべて水の泡になる儚い世界。


私が頑張るモチベーションは他人に褒められることによってできてきた。そして私の周りは結果を重要視する人ばかりだった。だからこそどんな過程を経てきたにせよ、結果が出たかどうかがすべて、最後に笑えば褒められる、そんな世界で生きてきた。

だからこそ常に結果が出ることを求めてきたし、求められてきた。結果が出なければそれまでの努力はすべて水の泡、そんな環境が当たり前と思って生きてきた。

それがとてもハードな世界なんて知らなかったのだ。あたりまえのものだった。

知らないってことはとても怖いことだと思う。それ以外の生き方もそれ以外の相手の評価の仕方も知らない。知らないということは、その他の世界の存在に気づくことすらできないのだ。

だから当たり前のように相手も自分と同じ世界で生きている、そう錯覚する。

結果がすべてだよね?結果が出ないと意味ないよね?

それが前提として相手にコミュニケーションをしてしまう。自分の世界が当たり前だから、相手の世界は考えないで、あなたにも私と同じ、結果で語る世界に生きることを強要する。

結果出してから物を言ってよ、私に何か言いたいなら自分も結果を出せ!そんな厳しすぎる見方をしてきた。

そしていつしか成果が出たことで褒められるハードな世界で生きることを当たり前とし始めると、当たり前だからこそ成果がでても褒めないという超絶ハードな世界へと変化していく。

成果が出て当たり前、成果が出ないと努力が足りない、褒めてほしかったら期待値以上の成果を出してみやがれ、なハードワールド。

それが当たり前だった。

そんな世界であるかどうかもわからない褒められるに向かって必死に努力して、結果を出しても褒められずもっともっとを求められ続けて生きてきた。

その結果、どんどん自分が嬉しいか、満足できるかどうかではなくて、相手がどうしたら褒めてもらえるのか、自分のことを認めてくれるのかを考えて生きていく、他人軸状態へと変化していった。

自分がしたいかしたくないか、ではなくて、相手が褒めてくれるかどうか、より褒められやすくなるためにはどうしたらいいのかを考えて動いていた。
そうなるともうできることはたった一つなのだ。

ひたすらに努力を重ねて最も失敗しない可能性を探る。それが最善の策になっていく。そしてその環境が自分にとって生きやすい世界と錯覚していく。

成果が出れば褒められるなんて優しい世界だ!

という風に認知がゆがんでいく。あなたも私も成果で語ろう、成果を出すために頑張ろう!そんな風に自分のことも相手のことも世界のことも認知していた。


優しいと錯覚していたハードな世界の終わりと空っぽな自分


そんな偽やさしい世界で、他人に褒められるための成果を求めて走り続けること20数年、ついに限界というかほかの世界の存在に気が付く時が来た。

多分世界の終わりのはじまりは、就活だったような気がする。志望動機で聞かれる、あなたのやりたいことは何ですか?という質問。一番苦手だった。やりたいこと…ないんだよな…と答えに詰まっていた。

今から考えると【一番簡単であるべき問】なのだ。だって不正解はない問だから。自分がやりたいことなんて本当は自分が一番よく知っているはずで、うまく説明できる/できないはあるにせよ、答えは自分の中にあるはずだった。

でもなかった。私の中のその答えがあるはずの場所は空っぽだった。空っぽだったというよりは私自身でそこを見ることができなかった。見方もわからなかった。

私にとってその問いの答えは、他でもない【質問者の中】にあるものとなってしまっていたから。あなたが一番喜んでくれる、私のやりたいことはなんですか?と勝手に置き換わっていた。

そして当たり前ではあるけれど、初対面の面接官の望む答えなどわかるはずもないし、自分が一番よく知っているはずの自分のことなのにわからないという奇妙な体験をしたことで世界の崩壊が始まった。

世界の崩壊と迫るタイムリミット


紆余曲折はありながら、何とか入社試験での【あなたの興味は何ですか】攻撃を乗り切った、というか乗り切れなかった私は、一番【何にでもなれる】つまり【何が一番好きかという決断を今この瞬間にしなくていい】経営コンサルタントになった。

経営コンサルタントは幅広い業界のクライアントを支援する、つまり、仕事をしながら興味のある業界を探したいです!で何とか乗り切れてしまう業界で。

ようやく興味を聞かれる精神攻撃から解放されたと安心した次の瞬間、またしても精神攻撃は結局開始された。

会社の中での部署を決めるために、一番興味のある業界を答えよという攻撃が始まったのだ。

入社して3年間は猶予があった、でも3年以内には決めなければならないとなって、カウントダウンが始まった


カウントダウンが始まったとはいえ、まだ3年ある、そう思っていたらあっという間に2年は過ぎてしまって。最後の1年で逃げることを諦めて問いに向き合った。

自分がしたいことは何だっけ?

他人軸で生きてきたからこそ、その問いに対し答えはもちろん持っていなかったし、欠片も見つけられなかった。

だからそこでようやく自分自身に向き合うようになって、そして知った。

ハードじゃない環境を知った。成果だけがすべてではない世界を知った。

自分がやりたいことに、それこそ生まれてきてから持っていたはずの、いのちにつながる何か、それに向かって生きていくパワーとエネルギーを知ったのだ。

本当にやりたいことにつながることを見つけたとき、今までとは違う何かを感じられるようになったのだ。それは最初は弱弱しかったけれど、でも無視はできない引っ掛かりとして私の中にあり続けた。

無視できないからこそそこに向かって行動してみたくなった。

成果に直結しなかったとしても、いのちにつながっている、それだけでとてつもなく尊く感じられる何かで、そこで初めて成果ではなくて、出発点と過程を意識する感覚を得た。

なぜそれを始めたのか、なんでそれをやりたいと思っているのか?そこにこそ物語があって、そこにこそ本当の喜びがあることを感じ取れたのだ。

その転換は劇的なものではなくて、徐々に緩やかに転換をしている感覚がある。なので今でもまだ成果で語ってしまう癖や成果がなければ意味がないと思っている節も多々ある。

それでも前よりいいかな、と自分に対して許せている感覚がある。成果にはつながらなかったけれど、今できるベストはした。そう言って自分を許せている感覚。


今できるベストを尽くし、積み重ねることが本質に繋がる世界へ


ベストを尽くせばいいというのが最近頭の片隅にいつもあると思う。自分が今できることをして、その結果を受け止めて、そこで改善点を探して次はより良いパフォーマンスができればそれでいいのだ、といえる。

今やっていることが誰かのために、ではなくて、自分のためにである以上、この経験は必ず将来のどこかで自分のために生きると思うから。だって自分のやりたいことは根っこの部分が自分のいのちにかかわる、不動のものに結びついているから。

そう思って自分を許せている今、私は前のようなハードな環境ではなく、自分が生き生きとできる自分で自分を生かし・癒し・前に進める環境で成長を目指して進んでいれると思う。

ハードな環境だって悪くはない、けれど今いる自分のための世界もよいものだと改めて感じられるのだ。自分で自分のことを許し、自分で栄養を与えられる世界、それこそが私が今生きていたい世界だ。

きっとこの物語はまだ始まったばかりだ。ハードな環境しか知らなかった私が別の世界を知って、今まだ歩み始めたばかり。その世界で生きることがいかに喜びや驚きに満ちているか、いのちにつながるってなんなのか、それは今から見れることだと思うし、そしてこのnoteがその物語の一章ずつな気もする。

いつもサポートありがとうございます!自分のスキを探しに、本の世界やカメラの世界などなどへの旅費にしてまたnoteに記録します。これからもよろしくお願いします!