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エセ鬱野郎は今日も落ち込む

死にたいなんて大袈裟なことは言えないけど、消えてしまいたいとうっすら思う夜が時々ある。そもそも「死」って言葉が強すぎる。「死ぬ」ってなんだ。心配するだろうが。いや、そこまでではないけど、やっぱり心配はされたいか。大丈夫という訳ではない。そんな時に消えてしまいたいと思う訳だ。死にたいって言える方が楽だろうけど、そこまでかまってちゃんになりたくない。そういう変に冷静なところがムカつくな。

The 1975に「I Always Wanna Die (Sometimes)」って曲があるけど、そのちぐはぐさが一番近いかもしれない。「稀によくある」なんてオモシロ言葉と同じで、言い得て妙だと思う。「いつも死にたい(時々)」、負の感情はいつも一時的だ。急な濁流のように強くなるけど、いつの間にかなだらかに戻る。だから常時ネガティブな訳ではない。でもその割に感情の起伏が激しい。自分はやっぱりエセ鬱野郎だなと思う。

僕は根っからのネガティブで、1つ悪いことが起きると連鎖的に落ち込んでしまう節がある。どうしようもなくなったそんな時に、唯一できることは音楽を聴くことだった。音楽が聴けてしまうからこそのエセ鬱なんだ。本当に辛い人は何も出来ないとよく聞くから。「悲劇のヒロインになりきって悲しい音楽を聴いている自分」に、心のどこかで酔っているのだと思う。でもそれでいい。メンタルが豆腐のように弱い人間で良かった。悲しい曲を聴いてこんなにも居心地の良さを感じられる。すぐに立ち直れない人間で良かった。失恋ソングを聴いていつまでも泣いていられる。aikoは最高。強靭なメンタルの持ち主は明るく楽しく過ごして欲しい。それに憧れはするけど、暗い部屋の片隅で聴く音楽はいつも体にスッと入ってくる。

半年前に引っ越してきたこの街には、もう沢山の悲しい思い出ができた。その場所を通りがかるたびに、あの日の自分がうっすらと浮かび上がってくる。おかしな話だけど、そのシルエットを見かけては、自分の隣にいてあげられたらと思う。信じていた人に裏切られてうずくまっていた駐輪場、折り合いの悪いホームステイ先に帰りたくなくて座っていた駅のベンチ、「なんで」と「どうして」を繰り返した僕の部屋。いつも涙で顔をぐしゃぐしゃにして、鼻をぐずぐずさせながら音楽を聴く自分がいた。簡単にどん底に落ちるくせに、流れてくるファイトソングを聞くと「また明日も頑張ろう」と思えたりする。どこまでいってもエセ鬱野郎で清々しい。でも、どれだけ都合がいいことを言っていようが、僕の一番の味方は結局僕でしかない。僕は僕の友達でいたい。反省は美徳だけど自分が敵になるのは困る。仲良くしような。

「何でここには悲しみと寂しさしかないんだろう」と、どうしようもない言葉ばかり溢れ出て、どうにか救ってくれる音楽を探して、再生ボタンを押している自分が今となっては愛おしい。君は多分大丈夫だよ。きっとこれからも同じことをしている。落ち込んで、また素晴らしい自分に気づいて、また落ち込んで…。そうやって日々は続く。また今日も音楽が鳴っている。


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