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M・Horkheimer「楽観論者としてのショーペンハウアー」試訳

ショーペンハウアーは決定的に楽観論者であった。また、世界の苦しみはライプニッツやヘーゲルまでの形式ばった楽観論を否定することはなく、独善的な形而上学というその場しのぎのでたらめを付加的に創作するだけであった。カントだけが単なる希望としての最高善を叙述したものである。ショーペンハウアーにおいては、生への意志の否定、つまり苦しみの終焉は個々の罠の中で形而上学的実在性として要求されている。また、ショーペンハウアーによって他の言葉を用いつつ、原罪のような何か、つまり孤独状態からの個々の意思の分離、そして反対に何か一なるものへの復帰や和解は、体系の終わりによる諦観(Quietismus)としての認識の基礎に信頼を置く。そしてそれは、やがて楽観的な独断論へと戻ってしまうのである。

ショーペンハウアーによれば、欲望や退屈といったものは個々の意志にのみ属しており、意志そのものには属していないということを根拠に考えている。しかし、それからいまだに、私が自身の存在から物自体を推論しえるとはどういうことなのか。以下の述べることは真実である。すなわち、救いは彼の実質的な形而上学を固有の法則とは同一視することはない、もしくは、救いは他人にも作用するような論証をしていることと悲惨という実在性とを争わせるものの、しかし、もしも固有で内面的な経験の類似に対するあらゆる存在の内部を解釈することが真の意味で明るい思想であるのならば、私やあなたの知性によってしか把握できない特徴や始まり、終わり、責めさらには統一のようなカテゴリーの構造を安定的に諸々のカテゴリーが機能しないような彼岸に適用することは一つの理想であるということである。

すでに欲求の概念や食欲に関してライプニッツは知覚と共同でモナドを規定し、そしてさらに、「生への跳躍」や「創造的進化」に関してベルクソンはそれを用いて実践している。ショーペンハウアーの形而上学的な楽観論ははっきりと彼の、「ある場所」から精神が移動したという神話の借用を明らかにするのだ。「ある場所」というのは、単に個々の精神ごとに異なった超越論的な運命ではなく、開かれている終末の現実的な可能性が個々の精神のもとで明確に主張されている場所である。

一なるものから切り離すことは終焉を迎えた。多くのカテゴリーよりも数が少ない仮象の状態のために一なる状態のカテゴリーを維持し、貴族階級もしくは自由主義の投影よりも現実的に独裁者の投影を維持するためには、信仰というものが相応しいのである。

個々の成果は主観的な能力であり、それから統一はその産物の量よりも少ない。そして、その都度、主に両者を偽とするもの(hypostasiert)や単に仮象と見なされているものは、歴史的な諸条件なしではいられないのである。批判的な哲学に応じて両者は、必然的な仮象であり、この分離の終焉によってこのような信念は「流出した諸主観」の理性における実践的な関心に由来する。そして、この「流出した諸主観」とは、救いというものは無限の不幸が故に理解し得ないということを捉えることができなくなっていることである。

常に苦しみの終焉としての人間的な営みを望む何かの死、そして天より来てなおかつ現世の苦しみを常に無条件に据えるものの復活はたちまち無益な無限となる。有益な無限というものは不確かな哲学的慰安である。それだから、とどのつまり、ショーペンハウアーはその慰安に反対して無作法な言動や他の三人が論駁できる失言を手元に置いておくのだ。世界の核心の経験が鎮静剤(Quietiv)になることは、心理学的かつ疑似形而上学的なプロセスに他ならない。この苦しみは永遠なのである。

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