カメラ紀行「世界の絶景」4.遺跡 その5 イタリア・ポンペイの遺跡
1.一夜で消えた古代都市
79年8月24日、ヴェスビオ火山tが大噴火した。その火砕流によって、一昼夜で溶岩と火山灰の下に埋まり滅びてしまった古代都市ポンペイは古代ローマ帝国の地方中核都市であった。
発掘されたのは18世紀以降のことである。
1700年もの間、古代都市は滅びたその日のまま、地中に眠り続け、ローマ時代の中核都市がほぼ当時のまま現代にその姿を伝えている。
壺が多数出土したことからワインの産地であったと言われ、港があり商業都市として栄えていた名残が、古代と変わらぬ姿で遺跡のあちらこちらに見られる。
ローマ時代の道と街並みが広がっていて、ポンペイを訪れた人々は古代ローマの日常世界に連れ込まれるのだ。
石で舗装された道は、少し崩れながらも次々と十字路を形成し、まるで現代都市のように歩道と車道は区別されている。
2000年前といえば、日本では弥生時代。その当時、ポンペイではすでに区画整理された住宅街、商店街や劇場、公衆浴場、運動場、酒場、墓地などがあったことが、1748年に行われた発掘調査によって明らかになった。
2.フォロ(公共の広場)
◆定番のフォトスポット
ポンペイ遺跡で一番のビュー・ポイント「フォロ」。
間近に迫るヴェスヴィオ山を背景に、山の手前に建つピテル神殿遺跡をセットにした風景は定番の撮影スポットだ。
ポンペイは、このフォロを中心とした西側から街が形成され、時代を経て徐々に市街地が東へと広がっていった。
◆ジュピター神殿
ジュピター(ユピテル)神殿には、ローマの神々を束ねる至高の神・ユピテル(主神)を含む、ジュノー(ユピテルの妻)、ミネルバ(知恵と武勇の神)の三神が祀られ、ポンペイで最も重要な神殿だったという。
現在ポンペイで見られる神殿の中でも最大規模を誇り、かつ保存状態も良好だ。
後方の神殿本体部分や前方のファサードを支えていた列柱から、在りし日の神殿の姿を想像することができる。
◆2階建ての列柱
フォロは歩行者だけが入場を許される広場で、その周りは建物で囲まれていた。その建物の柱だけが広場の左右に並んで遺されている。
ヴェスヴィオ山の噴火でポンペイの都市は火山灰で埋まったが、その重みで建物の屋根は崩壊し、壁や柱だけが遺されてた。
3.歩道と車道が区別されていた舗装道路
舗装された道路や歩道は当時のまま遺されている。
馬車は中央の車道を走り、歩行者は車道の左右に設けられた歩道を歩く。
雨で冠水しないように歩道を少し高くし、夜でも道が分かるように路面にはキラキラ光る蛍光材が埋め込まれている。
人は雨でも足を水溜りで濡らさず道を渡れる様に飛石が設けられていた。
4.アポロ神殿 アポロ像
紀元前6~5世紀ごろは、ギリシア人の影響を受けていたこともあって、ギリシャ神話の神アポロ(ゼウス)がポンペイの守護神として祀られていた。
現在、遺っているのは石の台と周辺に立ち並ぶ石柱下部だけで、矢を射るアポロ像はレプリカだそうだ。
5.フォロの浴場
フォロの浴場が建設されたのは、紀元前80年頃と推定されている。
浴場は、男女別に分かれ、それぞれに脱衣所、冷水浴場、熱水浴場、温水浴場があり、床暖房まで揃っていたそうだ。
浴場の壁には彩色ストゥッコ(漆喰)製浮き彫りによるアカンサス唐草や様々な幾何学模様、額縁状の枠に囲まれた動植物が散りばめられている。
6.ポンペイの悲劇を今に伝える石膏像
一夜にしてポンペイの街を覆いつくした火山からの噴出物は、2千~1万人の命を奪ったという。
灰に埋もれたまま亡くなっていった人たちのいた空洞に石膏を流し込んでつくられた像が展示されていた。
子どもに寄り添う母親や、抱き合う恋人たちの像は、突如起こった悲劇になす術もなかった人々の様子を知ることができたが、すべてを写真に撮るのは忍び難く一枚だけ撮るのが精一杯だった。
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