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Twitterが変ですね

こんにちは、朱野です。
Twitterが無課金ユーザーに閲覧制限をかけているため、タイムラインがまったく更新されませんね。私も無課金ユーザーです。ポリシーがあるわけではなく、無理して買った分譲戸建のローンを返すため、食べ盛りの子供が本当に食べるので必死に節約しているのと、そして有課金なんかしてしまったら長文を書いたり編集に凝ったりしてしまって、ますますTwitterから離れられなくなります。たしかにTwitterは告知には便利ですし、大好きなSNSではありますが、正直なところなくなってくれたほうが私の仕事は進みます。

でもTwitterがなくなると、フォローしている皆さんの日常が見られなくなってしまいます。それはなんか寂しい。私も日常のどうでもいいことをつぶやけなくってしまう。私のnoteをフォローしてくれている方の何割がTwitterユーザーなのかわからないのですが、まったく更新されないタイムラインに寂しさを感じている人たちのために、というか、私のために、久しぶりに内容のないnoteを書いてみています。

そうだ、まずはこの報告から。
出版業界を学ぶために3回ほど連続でやってきた「芥川賞と直木賞を全部読む」という修行ですが、今回はパスすることにしました。十冊もの小説を読み通すのが、ほんとすごく大変で、だからむしろ、なんかすごくつらいことがあった時期なんかは現実から離れられてよいのです。でも、私も仕事復帰したことだし、取引先からデスク環境までがっつ見直したところだし、そろそろ自分の仕事に没頭しないとまずい……という感じになってきたのです。労働経済学の論文ももっと読みたいし、あと芥川賞と直木賞にノミネートされる作品ってなんか私には「not for me」なことが多いのです。もっと現代社会をタイムリーに抉る作品が読みたい。芥川賞とかは抉っている場合もあるのですが、出版業界が「現代社会を抉っている!」と評価していたとしてもその出版業回が現代社会から五年くらい遅れているのです。ディスっているのではなく、そもそもバブルのピークも違ったし、ややゆっくりなペースで世の中を見ていて、高速化する社会にいないからこそ、見えるもの書けるものがあるのだし、とは思いつつ、「うーん、なんかもっとタイムリーなものを読みたいし書きたいんだ私は」とどうしても思ってしまう。高速化する社会に身を置いている人たちが書いた本ももちろんちゃんと刊行はされているけれど、文芸というジャンルではなかったりします。

それを如実に感じたのはやっぱりコロナのときだったかもしれない。パートナーがリモートワークになり、休校休園になり、まったくそんな環境が整っていないボロマンションで、昼は子供たちの面倒、早朝と深夜は連載の執筆をしていて、書店も閉まってしまい、仕事を続けていけるんだろうかとなっていたとき、次々に発表された大御所作家さんたちのエッセイを私はなんとなく覚えているんです。「そもそも私たち作家はずっと自宅で仕事をしていた」「もともと人と群れるのが苦手」「猫とゆったり過ごしている」「これまでの生活と何も変わらない」みたいな……雲の上から地上で右往左往している人間たちを俯瞰して物を言っている私……みたいな筆致にちょっとびっくりしてしまったのをすごく覚えているんです。いやいや、そりゃあ、あなたたちは紙バブル時代に本をたくさん売り抜いて、お子さんがいても子育ては扶養控除があった時代に終了していて、普段から社会との交わりを持つ必要もなく、だったら毎日の生活は変わらないでしょうよ…! (今回のコロナ禍では高齢者の方が重症化するリスクが高く、彼ら同世代を落ち着かせる効果はあったにせよ)その瞬間から、私は彼らの語る「社会批判」があまり信じられなくなりました。だってさ……「もともと人と群れるのが苦手」とかそういうこと言われてもさ、あんたの好みなんか知らねえよ……。私たちは人と群れて働かなきゃ食っていけないんだからさ……。

若い作家さんたちの方が、大学生だったり、会社員だったり、なかには医療職と兼務したりしていて、社会がどんなふうに変わっていっているかをエッセイやSNSで報告していて、時代を見つめている「メディア」として機能していたように思います。そして、そういう若い世代や、私たち働き盛り世代の苦境は、いつしか「本を読む状況ではない」「本を買える生活ではない」というフェーズへと進んでいくに違いないのに「これまでの生活と何も変わらない」もないもんだと思いました。

年をとるということは目の前の不安とむきあえなくなるということでもあるのかもしれません。みうらじゅんは「人間は本当に不安に感じていることとはむきあえない」と言っていましたが、それがたとえ作家であってもそうなのかもしれない。人間ですものね。

そんなとき読んだのが奥田英朗さんの『コロナと潜水服』で、この表題作にずいぶん救われたというか、大笑いしたのを覚えています。

主人公の30代男性はコロナ禍をきっかけにリモートワークに入ります。しかし奥さんは古いタイプの職場に勤めていて出社しなければらない。私の周りでもこういうケースが多いです。三十代でも男性のほうがリモートワーク環境をすぐに整えられるような大企業に就職しやすかったからなのかもしれないけれど、ただ家事や育児って「在宅で仕事しているほう」に偏りやすいのですよね。今は性別よりも在宅かどうかのほうが大きいよねという話を先日も30代の会社員の友人としました。出社する妻が注文したAmazonの配送が在宅の夫が会議中に届いたらしくて「ごめーん!」「配送時間を…設定しておいてくれると嬉しいな…」みたいな会話がされているのを近所でも聞いたりします。(分譲住宅エリア、30〜40代夫婦しか住んどらんので…)
主人公の男性もたぶんそんな感じの夫婦関係を営んでいるのですが、リモートワークができてしまっていて、外出しないですむがゆえに感染対策にすごく気を遣うのですよ。それゆえどんどん追い詰められていく。どうしても外出しなければならないときにマスクをしてないで顔を寄せてくる人がいると「もし感染したらどうするんだ!!」と怒るし、同僚と雑談できない環境であることもあって、どんどん過敏になっていく。一方の妻は「そんなこと言っても出社しないといけないし」とどっかで対策をあきらめていて、毎日職場の人と会って雑談してて、「ま、大丈夫でしょう」と思っている。実際にリスクがあるのは奥さんの方なのに、奥さんの精神状態は良くて、リスクゼロに近い生活をしている主人公の男性の精神の方がおかしな方へ行ってしまうという流れが、もう、

わかる〜〜〜〜〜!

ってゲラゲラ笑ってしまいました。
奥田英朗はこういう「まじめな人間が、現代社会の倫理に沿おうと、必死に努力しているうちに、エスカレートしていき、まったく別のリスク要因を招いてしまう」というコメディを書かせたら右に出るものが本当にいない。私もどっちかというとこの主人公男性に近い性格なので、思い切り笑ってしまったし、読み終わった後は心が軽くなっていました。

今思うとね……やりすぎてたんじゃないかってことがコロナ禍ではたくさんありました。「もし感染したらどうするんだ!!」も「ま、大丈夫でしょう」も、どっちも両極端なんだけど、その間にいるというのがすごく難しかった。しょうがなかったよなあ……あれが人間の限界なんだよな……ってことを『コロナと潜水服』を読みながら思ったのでした。
そして今世の中に求められているのは「これまでの生活と何も変わらない」と書く作家ではなくて、「コロナかかりたくないーーーー!!!」ってなってる人たちといっしょに「コロナかかりたくないーーーー!!!」って地上でのたうちまわりつつ、そんな自分をスケッチして短編にして、読者を笑わせながら「おかしくなってたの私だけじゃないんだな」と安心させることができるのとともに、「コロナかかりたくないーーーー!!!」という気持ちを書き記し、「人類はまったく冷静になんて対処できてなかった」ことを歴史に刻み、「ま、どうせ次もできないでしょうね」てなことを後世に申し送りする。そんな作家なのかもしれません。

そんな奥田英朗さんが、私の大好きな精神科医の伊良部先生シリーズを書いてくれた! 買いにいかなければなりません。

伊良部先生、今の社会にこそ必要ですよね。

ちなみに私のかかりつけの精神科の先生は、伊良部先生にかなり似ています。クリニックに行くたび「頭がおかしくなっているのは先生のほうなのでは」と思いつつ、だからこそ、「デスクをいいものにして、モニターを大きくして、いいキーボードを買ったのですが、こんな良い環境で仕事をしていいのかと、幸せになれるんだと思うと、吐き気に襲われ、鬱みたいに気持ちが落ち込んでしまうんです」などという相談もできるわけです。ちなみに今の相談は、先々週くらいに私が先生にした相談ですが、先生は「へー」とおかしそうに笑ってました。

まあそんなこんなで住み慣れたTwitterはメチャクチャなので、noteのほうで日常のことを書くかもしれない。書かないかもしれません。