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中島みゆき『悪女』におけるマリコの重要性について

マリコを子供の名前にしたい

 前略。私は中島みゆきさんが大好きである。大好きが故、大小様々なことを彼女と関連づけて連想しがちだ。例えばもし自分に子供ができたら何と名前をつけようか。楽曲や夜会の登場人物から取るとしたら誰の名前が良いだろう。子供の人生は彼(彼女)自身のものなので、作品の主体や特定の設定が与えられた人物は避けたい。そこで浮かんだのが『悪女』のマリコであった。私はマリコを『悪女』の主人公にとってとても重要な存在であると考え、尊敬していたからである。

先日、みゆきさんを通して出逢った友人と語り合う中で『悪女』の話になり、私のマリコ観に風が当たると共に、複数の視点で物事を見つめることの意義を改めて実感した。

中島みゆきについてのあれこれを考え語り合い新たな発見をしていくことは充実した営みである一方、文章として考えを表明することは今の私にとっては様々な意味において中々難しく、慎重でありたいことである。そこで、表題のようにテーマを絞り、更に「『悪女』という楽曲においての」ではなく「『悪女』の主人公にとっての」ということを重視して、マリコの「重要性」について述べてみたいと思う。

悪女ジャケ

主人公に対する尊敬

 まず、私は『悪女』の主人公に対し尊敬の念を持っている。彼女は、自分の彼氏に浮気相手がいることを知っている。そして、彼が自分に「愛想を尽か」しその相手(=「あの娘」)のもとへ行くようにするために、自分が彼から想いが離れて男遊びや浮気をしている(=悪女になった)フリをするのである。これを仮に悪女芝居と呼ぶことにする。

『悪女』をじっくりと聴いたとき、おそらく多くの人がそうであるように私はその設定に敬嘆した。悪女芝居など私には到底できない。正直それが「良い」ことだとも思えない。ただ、『悪女』を聴いていると主人公の中に通るまっすぐな線が見えてきて、それがとても美しい。だから、私は『悪女』の主人公のことを、自分とは違う一人の他者として尊敬しているのだ。

マリコの重要性


 さて、いよいよマリコに注目していこう。ご存じの通り、約15秒のイントロ後の開口一番の単語、それが「マリコ」である。さすが中島みゆき。耳に残るのは当然だろう。大ヒット曲となり意図せず耳にする人も多かったと想定すれば、印象的なマリコを恋敵と捉える解釈が生まれたのも無理はない。しかし実際は、『悪女』においてマリコはもちろん主人公でもないどころか主題に対して第三者的な存在である。

そもそも数百曲にある中島みゆきの楽曲において、曲の主題に対して第三者的存在であるにも関わらず固有名詞が与えられている人物は極限られている。おそらく『悪女』のマリコ、『誰のせいでもない雨が』の「滝川と後藤」、あとは『あの娘』で並列される娘たちだけではないか(他にもあればご指摘願いたい)。

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中島みゆきがこの手法を多用しているのなら話は変わってくるが、そうでない現状、彼らは第三者でありながら三人称で表すことのできない重要人物だと言えるだろう。ただし、『あの娘』の娘たちは「いくらもある」「似たよな名前」を並列されているだけなので、楽曲においての効果はさておき人物自身は不特定多数であり重要でないと考えられる。

『悪女』に話を戻すと、つまり、作者がマリコに名前を与え特定している時点で、マリコは「『悪女』という楽曲において」重要人物であるのだ。ここで、『悪女』には前述の通り主人公がいて、曲全体を通してその行為や心情が表象されている。つまり、作者によってマリコの役割を担う人物が特定されると同時に、主人公にとってもマリコは代替不可能な意味を持つ人物になるのだ。

加えて、冒頭の歌詞から主人公はマリコとの芝居を何度も行っていることが分かる。そして、マリコに対して「そうそうつきあわせても いられない」と思い諦めてからの主人公は曲を通し終始心身ともに孤独である。つまり、言い方を変えれば主人公はマリコ以外の人物に対しては「つきあわせて」も、これから「つきあわせ」ようともしていないのである。

私はその印象と前述の理由から、マリコを、悪女芝居という大業を成し遂げる主人公にとっての不特定多数の友人のうちの一人ではなく、実践面でも精神面でも唯一頼れる無二の友人と認識していた。マリコが主人公の心の内を知っているか否かは分からない。ただ、マリコが、悪女になろうという突拍子もない考えを持ち徹底的に実行してしまうような主人公の唯一頼れる女友達であるのなら、マリコはきっと主人公にとって、そしてそれはおそらく悪女にはなれない私にとっても、根本的な部分で数枚上手を走っている人物なのではないかと考えたのである。だから、私はマリコへの想像を膨らませ、彼女のことを尊敬すべき人物であろうと考えていたのだ。

マリコへの揺らぎ 

 しかし、前述の友人との会話を機に私の中でのマリコの存在感に揺らぎが生じた。まず、冒頭の歌詞において、私は当然のように、(主人公の精神的な面もあるかもしれないが基本的に)「主人公とマリコが“主人公の彼氏に対して”男と遊んでる芝居をしている」と考えていた。ところが友人は「主人公が“マリコに対して”男と遊んでる芝居をしている」と捉えていたのだ。これは私にとっては思いもよらない考えだった。もしそうだとしたら主人公にとってマリコは強がりの都合の良い捌け口であり、唯一無二の友人とは言いにくい。しかし、曲全体を通して主人公の思考の対象は自分の彼氏であって、悪女芝居は彼氏にとっての悪女になることを目的としていることや、「土曜でなけりゃ」以降の歌詞への状況の展開を考えると、ここは前者の解釈が自然だと考える(もちろん解釈は人それぞれ自由である)。

ところが、ここで、はたして本当にマリコは私が今まで散々述べてきたような主人公にとっての重要人物なのかという疑念が生じてしまった。友人は、「あのこもわりと 忙しいようで そうそうつきあわせても いられない」という歌詞に主人公のマリコに対しての上から目線的な印象を受けたという。マリコは簡単に言えば主人公にとって声をかければ出てきてくれる都合の良い存在だと捉えられる。なるほど確かにそうかもしれない。「あのこもわりと 忙しいよう」と気づくまで、主人公にとってのマリコは暇人、あるいは自分の都合通りに行動してくれる人という認識だったとも言えるのだ。歌の中で主人公はマリコに弱みを見せておらず、マリコに何かを相談する気もないだろう。それならば、マリコが主人公の数枚上手を走っている人物だとは考えにくい。


結局マリコは重要人物 

 私は今、安易にマリコを尊敬に値する人物であると言うことは難しくなってしまった。しかしその上で依然として、マリコは「『悪女』の主人公にとって」重要人物であると考える。なぜなら、主人公のマリコへのまなざしがどうであれ、前述の通り、悪女になろうとしている主人公が頼れた友人は結局マリコだけであり、マリコが主人公にとってのマリコとして代替不可能な存在であることに変わりないからだ。

そして個人的には、主人公が「あのこもわりと 忙しいよう」と気づいたところでつきあわせるのをやめていることから、彼女がマリコの時間を大切に思っていると考えている。つまり、たとえ主人公とマリコの関係が表面上は強がりな主人公主導の軽いものだったとしても、やはり実際は主人公の中でのマリコの存在感は大きいものであると、希望も込めて考えるのである。

…とは言え、ひとまずマリコを子供の名前にすることは取りやめておくことにする。

本稿は、完全に「自己満足のマリコ論」(笑)である。「『悪女』論」ではない。だから、『悪女』の分析の甘さや強引さは追及しないでいただけたら幸いだ。今結論として確信を持って言えるのは、結局ありきたりだが、みゆきさんの歌詞はそれ自体が大きな世界観を持ちながらも、聴き手に、聴き手自身や時と場合に合わせて様々な意味を与える素晴らしいものだということである。

さあこうして今日もまた一つ、彼女への愛が深まっていくのである。

<引用資料>
『悪女』中島みゆき、1981、ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス
『誰のせいでもない雨が』中島みゆき、1983、ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス
『あの娘』中島みゆき、1983、ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス

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