『推し、燃ゆ』感想


※ネタバレを含みます


生きづらさを抱えた主人公・あかりは、ままならない生活の中で「推しを推すこと」を背骨にして何とか今日も生きている。しかし、ある日推しのアイドルが暴力事件を起こし炎上してしまう――。

主人公のあかりにとって「推しを推す」ことがどれだけ切実な行為なのか、読みやすい文体を通してヒリヒリと伝わってくる。ひとりのアイドルオタクとして、主人公と同じように生きづらさを抱えるものとして、共感したり自己嫌悪にも似た感情を主人公にぶつけたりしながらあっという間に読了した。


「「推し」という言葉も、その感覚も、私と同じ年代の子たちには通用することが多いのですが、世間的にはまだその実態が理解されていないように感じたのが、書いたきっかけのひとつです。たとえば、「推しを推すこと」が恋愛の下位互換や趣味の一環として捉えられている。「恋愛的に好きなんでしょ」「一方通行で見返りが返ってこないのになんで追っかけてるの」と言われたりする。でも「推す」ことが趣味の範疇を超え、生きがいのようになっている人もいるんですね。生活の一部に深く食い込んでいる人が多いのに、あまり注目されていないと感じました。」宇佐見りんさん「推し、燃ゆ」インタビュー アイドル推しのリアル、文学で伝えたかった|好書好日. (2020). Retrieved 25 January 2021, from https://book.asahi.com/article/13923624



・文学的価値について。

「推し」、しかもアイドルの「推し」は、私含めてこの界隈にいるオタクの皆さんにとってはもはや定義するまでもない自明の概念だろう。それこそ、生活の深部にまで入り込んでいるような。


私は正直、この物語について「タイムラインでいつか見かけた長文の増田のようだ」と感じた。もう飽きるほど見たどこかの誰かの推し物語のひとつ。主人公が推しに対して抱く感情も、推しがいなくなってしまうことに対するポエティックな語りも、ぜんぶ誰かのはてブで読んだことがあるような気がした。

だけれど、きっとよい文学ってそういうものなんだろうな、とも思う。今まで文壇の主流から光が当てられることがなかった、周縁にあったどこかの誰かの物語を拾い上げ、それを丁寧に言語化して差し上げること。それを行った作品が権威ある芥川賞を受賞したという意義はとても大きいのかもしれない。「推し」のいない人にとって、「推し」にすがらなければ生きていけない人の生活に物語を通して触れるということは、センセーショナルな読書体験となるのだろう。私たちにとっては、日常的な光景だけど。現代社会の抱える闇を取り上げたという点でジャーナリズム的な価値はあるが文学的な価値があるのか、という声も目にした。しかし優れている文学はまたしばしばジャーナリズム的にも優れているものではないだろうか。


そしてネットでは、「推し、燃ゆ」の物語に自分を重ねたオタクたちによる、読書感想文という名の自分語り・推し語りが連鎖している。みんな物語について感想を述べてるんだか、主人公の「推す」行為についてオタクとして意見を述べてるんだか、それとも物語に感化されて自分の「推し観」を語ってるんだか、わかりゃしない。それらがごちゃ混ぜになった語りがタイムラインを流れていく。だけれど、これもまた、よい本がもたらすもののひとつなのだろう。どこかの誰かの人生の話を読んだ人が、それを自分の人生に引き寄せて考える。それを言語化する。言論が自由かつ活発に交わされる。「推し」という題材が、どれだけ多くの人にとって身近な概念だったのか、どれだけ多くの人にとって「ままならない生活を何かに縋って生きる」ことが共感できることなのか、今回の反響の大きさで浮き彫りになったように思う。


・これは「推しを推すこと」についての話なのか?

いくつものニュースサイトが本作品を紹介していた。そのなかで「推しが炎上したことで、主人公の生活は狂い始める」という紹介文が気になった。そうなのだろうか?主人公の人生が推しのスキャンダルのせいで変動するという話だっただろうか。きっとそれは違う。推しが暴力行為で炎上したときも、推しに熱愛疑惑がでたときも、そのこと自体は驚くほどあかりのメンタルには影響していないのだ。あくまで作品が切り取った時間軸の起点が推しの炎上から始まっているというだけで、主人公の生活はそのずっと前、推しを推し始める前から壊れていたのだろう。そして、推しに会わなくても、推しに人生を預けなくても、きっと何らかの形で生きづらさのしわ寄せが主人公の人生を襲っただろうな、と思う。

おそらく発達障害である主人公は、学校での集団生活になじめず、勉強にもついていけず、保健室で過ごすことが多い。家族とのコミュニケーションもうまく取れず、アルバイト先ではミスを繰り返す。部屋は足の踏み場もないほどに汚い。スケジュール管理ができず、忘れ物が多い。そんなままならない生活に生きづらさを感じている主人公・あかりは「推しを推す時だけあたしは生活の重さから逃れられる」という。ままならない生活のノイズを推しの音楽が流れるイヤホンでシャットダウンし、教室で寝たフリをしながら、やがてシャットダウンした問題たちが本当に手遅れになるのを薄目を開けてじっと待っているような主人公の生き方は、とても自傷行為的だ。ADHDである私にとっても身に覚えのある描写ばかりで、見事だった。

読み進めているうちに、これは「推しを推すこと」の話ではなく、「生きづらさを抱えている人」の話なのだという気がしてくる。つまり、物語の主軸はあかりがどのように推しを推し、あかりの推し・真幸がどのようにあかりの人生を救済しているか、というところには、無い。そうではなく、あかりがいかに生きづらさから一時的に逃避する手立てとして推しを推すことに救済を見出しているか、という話なのだ。オタクライフ物語なのではなく、生きづらさを抱えている人にとって推しを推すことが福祉として機能しているかという物語。そしてあかりは逃避先・救済を求める先がたまたま「推しを推すこと」になっただけなのだと思う。



・あかりにとっての「推し」

あかりの推し方はほとんど修行に近い。作中では「業」と表記されていたが。自分の生活にまつわる俗なものを一切省みずに推しに傾倒していく姿は、さながらひたすら座禅をして悟りを得ようとする仏教の僧侶のようだ。そして敬虔な宗教学者が聖書の解釈に心血を注ぐように、あかりはストイックなまでに推しに関する情報をすべて集め、推しの全てを解釈することに心血を注ぐ。

あかりの推しスタイルはとにかく推しに関するすべての情報を集め、解釈するということ。推しからの認知を求めるわけではなく、現場主義というわけではなく、またオタクとしての自己顕示欲に基づいて行動するのでもない。あかりが望むのは推しに関するすべてを「わかること」で、そのために膨大な資料を集め日々調査と分析に明け暮れている。その姿はさながら研究者のようだ、と修士課程に在籍している私は思う。だからこそ、最後の場面であかりが「推しのすべてをわかることはできない」と悟る、洗濯物の場面のあかりの絶望が際立つ。

しかし私は読みすすめるうちに、あかりにとって大事なのは「推し」ではなく「推しを推すこと」なのではないか、などと思うようになった。つまりあかりにとって「推し」は代替可能であり、真幸でなくてもいいのではないか。

あかりの推し方はきわめて一方向的で自己完結的、そしてひとりよがりだ。それは推しがファンを殴った後に突撃取材を受けた映像ですら、あかりにとっては解釈するコンテンツとなっていたことにも表れている。真幸の人生とか、真幸の感情とかよりも、自分が解釈する対象である表象としての「推し」への関心が優先されるのだろう。解散ライブを前にしてあかりが思うことは「私から推しを推すことを取り上げないで/生きていけない」であった。この先に推しの新たな門出を祝福するのではなく、これまでの思い出を感傷的に振り返るのではなく、自分の人生から「推しを推すこと」を取り上げられてしまう悲しみだけが浮き彫りになる。あかりにとっては、あかりから「推しを推すこと」を取り上げた「推し」すら憎いのではないだろうか。

また、作中に何度も出てくる「推し」「推しを推す」という表記の多さに比べ、「真幸」という名前が出てくることはずいぶんと少ない。ここからも、「推し」の代替可能性を感じることができる。きっとあかりがこの先寄りかかる先を「推しを推すこと」以外に見つけることができなければ、真幸でない別の推しをみつけるんじゃないか。そんな気がしている。

ていうか推しの名前が「真幸」真の幸せって、めちゃ皮肉だな。


・「推しを推すこと」に対しての冷静、かつ冷淡なまなざし

物語は最後、「推しを推すこと」を取り上げられ、自分の生活に目を向けなくてはならなくなったあかりを滑稽に描いて終わる。悲劇のヒロインとして泣き明かすような美しいラストでも、絶望して慟哭するようなドラマティックなラストでもなければ、希望すらも提示されない。解散ライブでこっそり録音した音声はちっともうまく録音されていなかったし、ストーカー(ヤラカシ)としても非常に中途半端だし、「推しはこれから先人生を共に過ごす相手がいる」「いくら自分が必死に情報を集めたところでその人に勝てることはない」「推しのすべてをわかることはできない」という現実を突きつけられるし、激高してもモノ一つ壊せず、ただ綿棒を床にばらまくだけ。汚くてくさい部屋で床に散らばった綿棒を一つ一つ拾い上げるあかりの姿はとても滑稽で物悲しい。

読後に感じたことは、筆者が「推しを推すことを背骨にして生きる人」に対して向ける視線の冷静さ、冷淡さであった。推し…というか他人を背骨にして生きることがいかに不確かで、それで生きづらさが緩和されたとしてもそれは一瞬の幻だぞ、とでも言いたげだ。ストゼロ飲んだら、その日のやなこと忘れるみたいな感じ。結局は推しを推すような不確かな行為に依存せず、人生をちゃんとやってかなければいけないのだ。わかる。とても理解できるからこそ、推しを推すことが背骨…とまではいかなくとも精神科でもらう薬くらいの重要度を持つ私としては、そこまで冷静かつ冷淡になり切れないのも事実だ。「推し」や「推しを推すこと」と適切な距離を取るということは前提の上で、「推し」が人生の救いとなるハッピーな物語の在り方があるはず…と信じている。いたい。


・主人公についてどう思うか、個人的な感想
オタクとしてあかりに共感が出きる部分としては、推すことはとても一方向的なものだと割り切っているところだ。まず、推しに対して認知を求めない、これはオタクをするうえで常に心得ておきたいところだ。認知を求めすぎるあまり暴走してモンスターと化したオタクたちをたくさん見てきた。ヤラカシ、ストーカー、情報垢、繋がり………ファンとして一線を超えてしまった人たちだ。ああはなりたくない。またあかりの、推しというコンテンツを解釈するという自己完結的な推し方も共感する。

その他の部分では、オタクとして思想が違うため、正直分かり合えんな~~~という感想を抱いた。彼女の「推しを全部理解したい」という欲望は「私は推しを理解している(できる)」という思い上がりに基づいている。しかし、他人のことなんてどう頑張ったって100%理解できるはずがないのだ。推しの芸能界引退が受け入れられず呆然としたまま、最後にあかりは推しの住んでいるマンションまで行くというストーカー行為にまで及ぶ。これまでは芸能人として生きてきた推しの芸能活動を解釈していたが、推しが芸能人ではなくなったとき、今度は推しのプライベートを解釈したいという欲が生まれたのだろうか。あかりが一線を超えてしまった瞬間である。

また、推しを神格化したり、推しとの出会いを運命的に解釈し崇めるようにオタクをするのも(推しが私を選んだ、みたいな表記があった気がする)、私の思想には反する。あくまで「推し」は私が個人的な理由や感情に基づいて選び、私が「推すこと」を決めたのだ。おそらく、推しとの繋がりに運命など神秘的な要素を見出すから、「推しのいない人生は余生だ」と言い切ってしまえるのだろう(この一文、主人公の若さ・ひたむきさ・浅はかさが感じられて好きだった)。推しは天から自分めがけて降臨してきた神ではなく、ステージ上のアイドルから私が選んで推すことを決めたのだ。あかり、今は推しが消えて絶望かもしれないけど、そのうち新しく推したくなる人が現れるって。

オタクをしていると、推しと自分との自他境界があいまいになっている人(というかほぼ同化している人)をよく見かける。あくまで推しは推し、自分は自分。そこに超現実的な繋がりはなく、ただ私が選んだという恣意的な繋がりがあるばかりである。推しの人生と自分の人生はどうやったって交わることがないし、推しがどうなろうが私は私の人生をやっていくしかない。随分冷淡かもしれないけど、そう考えてる。この先も、自分の人生をきちんとしたうえで、人生を彩るあくまで+αとして推しを推すというスタンスでいたい。




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