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本を読むことで生きていられた

爆笑問題の太田光さんが「高校時代誰とも話さなかった。話さないから新潮文庫を読んでた。だから新潮社は俺の友達。」と述べている場面を動画で見た。細かい言葉は違うかも知れないが、意味は大体同じだと思う。

それを見て、不覚にも涙ぐんでしまった。

多感な時期、誰とも話さずに過ごす学校の一日は長かったことだろう。それでも一日も欠かさず通ったというのだから、孤独に耐える強さを持っていた人なのだろうとは思う。苦しさを笑いにしてしまうあたりは、さすがと思う。

なぜ泣けてきたのかというと、本を読みそこに埋没することで日常に耐えた経験を思い出したからだ。

特に不満らしい不満もなかった。友達もいた。部活もしたしそこそこ勉強もした。しかし、何かに飢えたように本を読んだ。興味をひいたものは片っ端から読んだ。本に埋没しているときは楽しかった。そうやって自分の生活に足りない何か、ままならない何かを必死に埋めていたのだと思う。それが何かはわからないが。

本を読むとだんだん自分も書きたくなってくる。大抵はその時読んだ本の模倣。オリジナルを作り出すというのは大変なこと。オリジナルを作り出せなければプロになれないと思ってる。いくつか書けば自分に独自性があるのかないのかわかってくる。大抵は既存のものでしかない。それが許されるのは趣味で書いてる場合だけだろう。趣味の拙い作品でも読んでくれる人がいるのはありがたい。

話がそれた。何事か自分では意識しない苦しさの中、読んだ本や漫画、書いた作品、観た映画等は自分の友達なのだなぁと太田さんの発言を聞いて思う。明確な理由はなくともなんとはなしの物足りなさや息苦しさというのは、生きてれば誰にでもあるものなのかもしれない。

今までそれらは「慰め」なのだと思った。けれどももう少し積極的な意味合いを持つような気がしてきた。困難に対峙する物語の主人公に自分を重ね現実世界に耐えるというのは、ありそうな話だ。現実世界で追い詰められた主人公が物語の中で(あるいは異国で、異世界で)紆余曲折を経ながら成長し、現実世界でも生きていく、という話は形や設定を変えて多く作品に描かれているように思う。それを読み励まされた人もいるだろう。現実世界ではできないロールプレイをしているのかもしれない。

現実世界に対処していけないほど心の準備が整っていない時もある。そんな時、物語に逃避して自分の心を整理するのもありだと思う。明確な答えがいつも現実世界にあるとは限らない。一つでもない。現実と自分との折り合いをしていくなかで物語は無意識下の葛藤を和らげてくれるような気がする。

幸せだと本を読まない、ということはある。現状に満足することは幸せなこと。ただ、人はいつも現状に満足する、とはないのだろうなと思ったりする。

本に限らず何らかの物語は自分の心を整え生きる意欲を奮い起こさせるものだ。人は生きていくためにどんな物語を信じるのだろう。







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