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読解『おもひでぽろぽろ』 part 9 アベくんの手 農業の手

■”嫁:こちら”にこないか?

 現在:山形

 農家の家でアイスクリームを作っているタエ子。そこにばっちゃんがきて、タエ子が明日帰ってしまうことを寂しがる。ばっちゃんは、タエ子にここ:山形が好きか?と問う。タエ子は「もうここがふるさとみたい」などと言って見せてイエスと答える。
 ばっちゃんは追撃する。

本当に東京よりこごがいいのかぁ

タエ子の返事

東京はゴミゴミしてて ビルと車だらけで もう人の住むところじゃないみたい
そんな東京から来たら もうここは別世界です

 やはりタエ子は”別世界:あちら”だからこそ山形が気に入ったのだ。「ふるさと」といいつつ「別世界」なのだ。ばっちゃんとの会話が続く、タエ子は山形への言葉を続ける。

ええ 自然がいっぱいで みんな親切で…

 「みんな親切」というのはもちろん、タエ子が”あちら”のお客さんだからだ。さらに、田舎の自然はトシオによって”人間”と”自然”の共同作業の結果だという視点をもらったはずなのに、ここではまた都会人がもてはやす木々や森、水の流れという意味での”自然”を使っていると思われる。
 それを聞いたばっちゃんは境界を越えてくる。

タエ子さん あんた来てくれねぇべが トシオんとごさ

 突然の発言に驚くタエ子。ばっちゃんは続ける。
 ミツオ(ナナ子の夫、タエ子の義兄)が”「東京の人」:あちら”になってしまったから、代わりにトシオの嫁としてタエ子が”山形:こちら”に来てくれないかと。
 それを聞いていたカズオとキヨ子(農家の夫婦)が驚き会話に入ってくる。カズオは何を急に言い出すんだと諌める。対してキヨ子はばっちゃんに賛同する。カズオとキヨ子が言い合っている間、タエ子は俯きがちに暗い表情。

 カズオまだこの話は性急すぎると言葉を並べる。タエ子は東京から休暇を楽しみにきてるんだから。それにまだ2回目だと(何回だったらいいのだ?)。それにトシオの気持ちを聞かないことにはどうにもならない、と。
 カズオは容易く境界を越えるべきでないと言うのだ。タエ子という”よそ者:あちら”とトシオという”他人:あちら”、二人の当事者の話に簡単に首を突っ込むな、境界を越えるなと言っている(タエ子の父に近い)。

 対して、ばっちゃん、キヨ子チームは、「トシオの気持ちは見てれば分かる」という同化によって、合意など取るまでもない、というのだ。

 そうやって農家たちが農家たちの内で議論を重ねる中、タエ子はついにたまらず家を飛び出していってしまう。逃げ出したタエ子を見送りながらカズオは「ものには順序ってもんがある」という。
 境界を越えるのにはそれなりの手続きが必要である、というのだ。靴を履いたり、両家の顔合わせがあったり(ばっちゃんが一度だけ東京にいった理由)。

 それをばっちゃんは勢いで越えようとした。(しかし最初に”勢い”で越えてきた人は別にいますよね?誰でしょう?)


■アベくんの手 農業の手

 タエ子は自分の人生の可能性として「農家の嫁」というものがあることに感動を覚えた。「私でよかったら」と言えたらよかったのに、とモノローグ。
 ではなぜ逃げてきたのか。

自分の浮ついた田舎好きや真似事の農作業がいっぺんに後ろめたいものになった 
厳しい冬も 農業の現実も知らずに”いいところですねぇ”を連発した自分が恥ずかしかった

 タエ子も”山形の外の人間”として農業を楽しんでいたことを自覚した。それは旨みだけをとったアミューズメントだ(紅花詰み、稲刈り)。外から見たらアミューズメントであるが”中”からしたら”生活”である。
 ばっちゃんに”こっち”、”中”に入ってくれと言われた途端に、自分の中で”田舎への憧れ”が表面的な浮ついたものだとありありと自覚されたのだろう。田舎の生活にも、もっと些細で凡庸な退屈や苦労、”映えない”労働があることに目をむけさせられたのだ。

私には何の覚悟もできていない それをみんなに見透かされていた いたたまれなかった

 とモノローグは結ぶ。
 もちろん農家はそんなの簡単に見透かす。見透かす、というよりそもそも覚悟など期待してないだろう。覚悟など期待されていないのはカズオの「休暇を楽しみにきている」発言からも分かる。
 タエ子はそういうことが分かっていない(”農家のあちら”ので、無覚悟を見透かされたことを恥じている。つまりタエ子が勝手にいたたまれなくなっているのだ。

 「居た堪れない」その場にいるのに耐えられない。
 自分以外の人間はみな自分を”あちら”としており、自分だけが一人ここが、ふるさと、”こちら”だと勘違いしていた。しかし、自分はE.Tなのだ。なので「居た堪れない」のだ。居場所がないので逃げてきた。

 タエ子は橋までやってきて足を止める(橋は境界を越える手段、”あちら”と”こちら”を結ぶ)。
 すると心で声がする。

お前とは握手してやんねぇーよ

 タエ子の後ろに男の子が立っていた。あべくんだ。
 あべくんの姿とともにクラスの他の女子の声が聞こえる。あべくんの身なりの汚さに言及し、隣の席のタエ子を憐れむ声が聞こてくる。先生に言って席替えしてもらうべきだと。
 小五のタエ子はその時、女子達の陰口(秘密の悪口)に対して、そんなこと言うのは彼に悪いと否を突きつける。対して他の女子は「本当?」「いい子ぶって」などという。陰口班のツネ子は「さっきの話 ぜったい内緒だからね」と言う。タエ子は女子の秘密の陰口を拒否することで女子の”こちら”からあぶれる危険があった。それでも陰口はよくないと言った。
 空想のあべくんは「ぶっ飛ばされんなよ」と言い放ち山形の景色に(橋の向こうに)消えていく。

 そこにトシオが車でやってくる。雨も降っている中、橋の上で一人立っているタエ子に怪訝そうに声をかける。車内でタエ子はつらつらと当時のことを語り出す。
 転校生としてやってきたあべくんがタエ子の隣の席になった。彼は貧乏で身なりが汚かった。鼻水を袖で啜ったり、鼻くそをほじったり。タエ子はそんな彼が内心嫌でたまらなかった。それでも、陰口をいい「エンガチョ」をしている他の女子の仲間にだけは入らなかったと。

 「エンガチョ」は縁をチョキンと切るということ。縁=繋がりだ。”あちら”と”こちら”の連絡を断つのだ。橋を落とす。(生理が感染る)
そうして女子はあべくんを外部に押しやる。

 タエ子はそのあべくんを拒絶する女子から”外れる”ことを選んだ。本当は嫌で嫌で仕方ないけど、表面上はいい顔するのだ(いい子の演技)。

 そんな中、あべくんはすぐに転校することになった。お別れの握手をしようと先生が言い出す。みんなであべくんと一人一人握手をするというのだ。
握手はもちろん”あちら”と”こちら”の接触だ。みなあべくんに触りたくない。教室に嫌がる空気が広がる。あべくんはあべくんでみんなと緊張しながら握手をしていく、最後にタエ子と握手をすることに。そこで彼が言い放ったのが

お前とは握手してやんねぇーよ

 彼はタエ子とだけ、表面上の連結を拒絶した。あべくんのことを一番嫌がっていたのは自分だと、それに気づいていたあべくんはタエ子を拒絶したのだと。(タエ子談)

 タエ子は誰からも拒絶されたあべくんと同じ”こちら”であると表面上のポーズをとった。それがあべくんには気にいらなかった、タエ子の”同情”が気に食わなかったのだ。
 ”同情”は字のごとく同じ感情になるということだ。「同じ」にするとは今まで書いてきた通り、”あちら”を飲み込むような暴力性がある。しかもタエ子のそれは”表面的”だ。ポーズとしての同化である”同情”だ。いい子ぶった境界侵犯

 農家の嫁に来ないか?と言われてあべくんのエピソードを思い出すのは、このような関連性からだろう。
 気楽に”東京”と”山形”の境界を越えてきて、農業の旨みだけをさらって”仲間入り”を果たしたと勘違いしていたこと。表面的な同化で”あちら:あべくん”に同情し、”仲間”としてあげたこと。
 ”他者”に対する軽薄な行動、表面的な行動について、タエ子は自分の幼稚さを自覚したのだ。そして言葉を続ける。

私 子供の頃からそんなだったの ただいい子ぶってただけ 今もそう

 さてこれも信用ならない言葉だ。ラストシーンの主人公の独白というだけで信じそうになってしまう。しかし、他人のその人の自分評ほどアテにならないものはない。

 「いい子ぶってた」と自称するが、果たしてそうだろうか?

 給食は残すし、エナメルのバッグが欲しいとぐずる。百歩譲ってわがままは”家庭内”でのことなのでヨシとするが、彼女はそもそも自分の田舎願望を充足させるために、姉の夫の兄という距離のある親戚のところにお世話になっているのだ。

然るべき手続きを踏んだのはナナ子とミツオ

 東京ー山形間に橋をかけたのは、境界をしかるべき手順(婚姻)で越えたナナ子とミツオだ。タエ子はそれにあやかって橋を越えてお邪魔しているのだ。自分の田舎願望のわがままを満たすために。

 確かに彼女の自覚としては「いい子ぶって」いたのかもしれないが、実際に起こしているアクションとしては「いい子ぶる」こともできていないのではないだろうか?

 そして何より、農業を手伝うのを「いい子」だと彼女は考えているのだろうか?
 「今もそう」というのは農家に対して表面的な労働をしていたこと、その自分の幼さの自覚に対しての発言だと思われる。ここでの表面的な労働は「いい子ぶる」ということなのだろうか?
 もし農家での表面的な労働を「いい子ぶって」やること「いい子の演技」だというのなら、それはタエ子が”農業”それ自体を”あべくん”だと見ていることではないだろうか?

 手が汚れる農業あべくんの垢じみた手を同一視している。
 東京が退けた泥まみれの田舎に、タエ子は”いい子使者”としてやってきたのだ。しかし、有機農業の泥に触る作業からはさっさと退散したいのがタエ子なのだ。タエ子のより無意識の部分でこの二つが繋がっているからこそ、あべくんのエピソードが立ち上がってくるのではないか。

 あべくんは垢じみた手を引っ込めてくれたが、農業は泥まみれの手を差し出してきた。タエ子が逃げたきたのはその手だ。

 タエ子のトラウマを横で聞いていたトシオ。
 彼は持ち味の”勢い”でタエ子の気持ちを解きほぐします。


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