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読解『おもひでぽろぽろ』 part 7 「本物」の田舎

■「本物」の田舎

 現在:山形

 蔵王からの帰り道。田んぼ景色で車を止める。タエ子はその景色を見て言う

あー やっぱりこれが田舎なのね 本物の田舎 蔵王は違う

 蔵王のようなリゾート地とは違う本物の田舎だという。トシオはその言葉を聞いて話し始める。
 都会の人は、森や水の流れをみると自然と言ってもてはやすけども、この田舎の景色は人間が作った景色、百姓が作った景色だ、と。田んぼや畑だけのことではなく、流れている川や森、林も人間が自然との関わりの中で出来上がったものだ、と続ける。トシオはまとめの言葉を綴る。

まあ 自然と人間の共同作業っていうかな

 ”自然”と“人間”の共同作業の結果が田舎なのだ。
 ”あちら”と“こちら”の共同作業。

 タエ子はその話を聞いて何かを納得する「だから生まれても育ってもいないのに懐かしいのか」。

 一つの価値観が提示され、いよいよ今作の根っこのあたりにきた感じがあります。”自然”と“人間”の共同作業の結果としての田舎。それを再現する有機農業。この価値観を是とするのが作品のメッセージなのだろうか?

 実はまだ注意。
 トシオが共同作業による田舎について語っている時、農家の人々が映る。

田舎のいい顔1
田舎のいい顔2

 見てください!このよそ行きスマイル!こちらに確実にカメラがある顔なのだ。

 まだ田舎は外面を取り繕っている。タエ子に対しても、観客に対しても。

 山形の田舎景色が写し出されている間ずっと例のルーマニアの曲が鳴っている。「本物の田舎」だと銘打っているシーンで遠い国の音楽が流れ続けている。
 そして、何よりこの海外音楽トシオが百姓になるための音楽でもあり、タエ子が田舎の農業のオシャレさを感じる音楽なのだ。“あちら”への空想を象徴する音楽だ。

 また、思い出して欲しいのが、トシオは百姓としてペーペーであり、先輩の受け売りの言葉を話す人間だと言うこと。そして、有機農業を「かっこいい農業」だと言う人間である。
 トシオは百姓に憧れている。そんな彼が話している田舎とは本当のところどうなのだろうか?

 そんな実情は梅雨知らず。タエ子はその話を聞いてますます田舎の良さなるものに当てられてしまう。そして「懐かしい」と言うのだ。


「懐かしい」
とは時間的な”あちら側”だと言える。今生きている場所、今使っているものに対して「懐かしい」とは言わない。
 ”こちら:自分”の地元に帰ってきて「懐かしい」のも、
 ”こちら:自分”の使っていたおもちゃ”をみて「懐かしい」のも、
 その人が一度その”こちら”の外に踏み出たからだ。もう戻るこのとのない”あちら”の時間に心が惹かれる。過去への憧景。懐古。
 
地元でずっと暮らしている人は、地元を懐かしがらない。そのおもちゃでずっと遊んでいる人は、そのおもちゃを懐かしがらない。

 思い出(おもひで)もまた時間的に”あちら”にいるからこそ「懐かしい」のだ。

 そして何より、タエ子の言う「懐かしい景色」とは田舎のありふれたキャッチコピーに思える。ノスタルジーを煽るのは田舎商法の王道で”あちら:他者”に向けた宣伝なのではないだろうか

 例えば、月間『INAKA』と言う雑誌があったとして表紙にそのコピーが書かれており、あの農家たちの「よそ行きスマイル」が掲載されているところは易々と想像できる。さらに言えば、海外のINAKAとしてハンガリーやルーマニアが特集されることだってあるだろう。そこではもちろん百姓音楽として「ルーマニア音楽のすゝめ」と言う記事が人気なのだ。紅花娘の一生なども紹介されているのだろう。

 危ない危ない騙されるところだった。

 では真の田舎とは?ここに私は答えを出しませんし、この作品も答えを出しません。重要な点は、トシオが話していた共同作業は、昔の人々が行ってきた共同作業だと言うこと。昔の人々の成果物としての田舎を眺めている。


■カッコよくない有機農業

 ルーマニア音楽が終わるとタエ子が稲をいじっているシーンになる。トシオと一緒に「有機農業体験」だ。地味で辛い作業にタエ子は一言

有機農業 ちっともカッコよくないじゃない!

 トシオはそれを聞いて笑いながら応答。かっこいいのは理念で、生き物の手助け(実作業)はえ〜らく大変。

でもこれじゃあ百年前と変わらないじゃない

 と文句を垂れる。
 ここで思い出して欲しいのが”映える”紅花摘みである。
綺麗な赤を作り出す紅花に対して、有機農業は文字通り泥仕事。タエ子の手が黒く泥で染まっている。

"映える"赤
 "映えない"黒

 農家に来る前のトシオとの車内の会話でタエ子は「紅花摘みは江戸時代はすごかったんでしょ?」と問うていた。タエ子が紅花摘みの時に思いを馳せていたのはその江戸時代の紅花乙女である。作中時間1982(昭和57年)から約300年前だ(山形での紅花が盛んになっとされる中期ごろとするhttps://www.nmai.org/beni/rekishi.html)。タエ子はゴム手袋を外して当時の気分を味わってみたりしていたはずだ。

 それに、稲の農業なんて江戸時代どころではないし、紅花よりもずっとメジャーな作物だ。文字通り”ライスワーク”であるが、タエ子は東京の”ライスワーク”を忘れるために、山形に”デトックスワーク”をしにきている。だから”映えない”稲の雑草とりなんか投げ出したい。

 実はタエ子は紅花体験の前の年は”稲刈り”をした。では、ライスワークにやったじゃないか!となりそうだが、注意が必要。
 タエ子がやったのは稲”刈り”だ。すでに出来上がっている稲を刈るのを手伝った。お膳立てはされていたということ。フルーツ”狩り”という言葉と同じ意味での”刈り”だ。
 タエ子がここで携わって”いない”のは”育てる”ことだ。ある程度最終の段階にちょろっとお邪魔して農業をした気になっているのだ。

 タエ子が今ここで出会っているのは”農業”の”こちら”、その一端である。農業の実情=実作業の地味さと辛さにタエ子は音を上げる。
 軽食を持ってきてくれたばっちゃんに助けられ、有機農業から逃げることに成功。

 その後トラクターに乗ってみたり、牛の父を絞ってみたり、果物に保護袋をかけてみたり、アミューズメント農業に移っていく(またルーマニアの曲が流れ出す)。注目はどれも成果物に対しての作業であると言うこと。トラクターに関してはデパート屋上のパンダの乗り物と一緒。彼女はまだ”過程”に参加していない。

農家たちのよそ行きスマイルに注目。

田舎のいい笑顔3

タエ子はそれで田舎を知ったつもりでいた。



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