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読解『おもひでぽろぽろ』 付録

 ここは付録です。特に体系だって語れないけども、面白い要素のあるトピックを扱っています。ので答えが出てないのもあります。

■思い出時間軸

 作品時間としてはタエ子の”あちら”に対する態度を簡単なものから順繰り描いているように感じるが、実際の作中の小5の思い出の時間軸はバラバラだ。()付きは服装や会話からの推測。他は黒板やセリフで明示されている。

 タエ子のトラウマである「あべくんとのやりとり」は夏休み前なのだ。田舎への憧れが始まる前で、他の全てのエピソードの前。こういう仕掛けからも人が何度も何度も同じようなことを繰り返して前に進んでいくというのが表現されているように思う。線的な成長ではなく螺旋的な二次元、三次元的な成長が表現されている気がする。気がする。


■わがままな子は誰か

 タエ子が玉ねぎを父の方に避けながら、エナメルのバッグの話をしている時。子供達のやりとりに呆れて祖母が言う

うちの子は みんなわがままだよ

 さて、この時のわがままな子とは誰をさしているのだろうか。祖母にとっての子は、ナナ子、ヤエ子、タエ子、そして彼女らの父だ。

 父は父でタエ子に人形の服を買ってあげて甘やかしている。甘やかすことでタエ子を自分の元に置き続けている(甘えるー甘やかす関係)。タエ子が玉ねぎを避ける時「お父さん玉ねぎ好きだもんね」と言う。その時は空返事で「ああ」と答えたくせに、結局食べないので妻に捨てさせるのだ。タエ子との関係は保持したまま残飯処理はしないのだ。

 もう一方、父の娘についてのわがままな描写がある。ナナ子は山形のミツオと結婚した。しかし冒頭タエ子の電話口にでたナナ子が姓を岡島と名乗ったことと、「ミツオが東京の人になってしまった」と言うばっちゃんの発言から、ミツオが婿養子になったことがわかる。
 ナナ子を嫁がせずに、岡島家の元に留めているのだ。人手不足の農家の方は嫁にきてもらいたいという意志は強いはずだ。それでも婿養子となっているのは相当、岡島の父が頑固だったのだろう。

 タエ子が演劇をやることを咎めたのもこの「わがまま」さ故か。タエ子がまだ別の男のところにいくのが許せないと見る。

 そして、祖母の言う「わがままな子」発言は父に効いたのだろう。いつもはタエ子のわがままを聞き、自分の内におく手段としていたが、中華料理の日は違った。ぐずるタエ子をみて逡巡していたのはきっと食卓での祖母(父の母)の言葉を反芻していたのだろう。
 第二ボタンが取れて卒業したのは父の方だったのかもしれない。


■リエちゃん

 生理の話と分数の話で登場するリエちゃん。タエ子は彼女は算数苦手だったのに、言われた通り分母分子をひっくり返して100点、と語っていた。しかし、実際のところはどうだろうか?
 生理の話の時のこのカットをみてほしい。

キュリー夫人の伝記を読むリエちゃん(左下)

 左下の子がリエちゃん。さて彼女の読んでいる本に注目。
 キュリー夫人の伝記だ。マリ・キュリーといえば物理学者、化学者だ。そこに興味があるような子が算数苦手なのだろうか?タエ子の歴史改ざんなのではないだろうか?
 タエ子と女として同じ”こちら”にいながら、生理として、分数の割り算ができて、結婚して”あちら”にいるリエちゃん。タエ子の中で自分とは違う理想の女子として勝手に決めつけていないだろうか?

そしてマリ・キュリーの伝記というところにはまた別の意味があるように思われる。


■タエ子の性

 この辺は、確証を持てないが、こじつけでもないだろう話だ。

 物語の始まりでタエ子は上司に休暇申請を取りに行く。その時上司から「10日も休むなんて失恋?」と聞かれ、少し驚いた表情をみせた後、笑顔で首を横に振る。「失恋したから旅行」と言うステレオタイプな女像に入れられることに不快感を覚えたが、うまく隠したように見える。この時タエ子の服が青色である。青といえば男の色だ。

 一方、小学校時代の服は基本赤色で描かれる。赤色は女子の色であり、生理の血の色であり、紅花の色であり、紅花から作られる化粧品の紅(べに)の色でもある。そして紅(べに)は化粧品として女性を象徴するものでもある(表面を取り繕う、という言い方もできる)。

 青が男の色とするのは、上記の理由で赤が女の色として表現されているからだ。その対色としての青。
 作中男子のランドセルは青気味に描かれる。当時のランドセルは染色技術的に男子は黒が主流だったという。ランドセルもまた黒:赤で男:女を規定してきた。その黒が青になると男:女=青:赤だ。男の象徴であるY染色体のYに青があてがわれ、対する女の象徴であるX染色体に赤があてがわれている(次の蝶の読解でまた触れる)。

青のYと赤のX

 タエ子は寝台列車のモノローグで「仕事でも遊びでも私たちは男の子たちより…」と男子との比較をしていた。タエ子自身は”男側”に自分がいるとは思っていない。”私たち”というのは”女側”だろう。しかし、どうも単純な女とも思えない。タエ子はこの時、青いボーダーの服をきている。ボーダー(境界)。

 ナオ子に父に打たれた時の話をしてE.Tで繋がるまでのシーン。タエ子はなぜかカタツムリを一度腕に載せる。カタツムリといえば雌雄同体だ。わざわざこんなシーンを挟むのに意味がないはずがない。この時タエ子は”青のジーパン”、ナオ子は”ピンクのスカート”を履いている。

 トシオと蔵王デート。彼に「結婚しないのか?」と言われた際は、かなり苛つきをみせていた。”結婚するのが女”というグループへ入れられるのを拒んだ。しかし、結婚した女(リエちゃん)を”すんなりいった人生の人”と語る。女であるが、タエ子は”すんなりいった女”ではないのだ。

 リエちゃん(女の中の女)の読んでいたマリー・キュリーは女性初のノーベル賞受賞者だ。しかし”女性初”という言葉は”男:女”の区切りがあって初めて出てくる言葉だ。なければわざわざ用いない。区別があったとしても”男性社会の中で活躍を見せた”、"男性の仲間入りした"、"男女のボーダー(境界)を越えた"という意味合いが出てくる。彼女はキュリー”夫人”という表記で馴染みがあり、そこにファーストネームがない(今はマリ・キュリー表記だと思いますけど)。

 女性という言葉で括られたものの中に無数の個別的な個人がいるということが表現されているように見える。”婚姻”をモチーフとした時、男女の結びより、それ以前の個人と個人の”婚姻”というところまで描こうとしたのか。それは”ほのかな香り”で止まっているようだが。いや、”ほのかな香り”で止めることが最善手なのかもしれない。明示化とはつまり境界をはっきりさせることだ。ドロドロに未分化で「どっちか」といえない状態が個々人の孤独な性、”個性=孤性”なのではないか。言葉では描きえぬ孤性を図像暗喩的に描いたのではないか。



■蝶

 蝶についての解釈は難しかったし自信がない。成長のメタファーといえばそれまでだが、それはどんな成長だったのだろうか。
 最後にここを探っていく。

 蝶が出てくるシーンが4つある。
内、描かれているのが「モンシロチョウ」と思われるのが以下の3シーン。
・タエ子とリエちゃんがくず入れを運ぶシーン
・紅花畑の朝日のシーン
・引き返すことになる電車のシーン

残り一つは「キアゲハ」と思われる蝶が出てくる。
・生理の思い出明け、寝台列車でのタエ子のモノローグ中。

モノローグ中に出てくるキアゲハ

 モンシロチョウとキアゲハはともに単婚、つまりメスが一生に一度しか交尾をしない種であるとされる(最近の研究ではまた違うらしい)。

 モンシロチョウについて。
 メスが一度しか交尾をせず、交尾後、他のオスに言いよられてもお尻をあげて交尾拒否行動をする。そんな厳しい世界だから、オスたちはサナギから生まれたばかりのメスを探し回ってそこらを飛び回り、メスがいると我先にと群になって追いかけたりするらしい。

 タエ子は寝台列車のモノローグで綴る。

青虫はサナギにならなければ 蝶々にはなれない…
サナギになんか ちっともなりたいと思ってないのに…

 ここでのサナギにはドロっとした液体のイメージがまとわりつく。何故ならこの前に描かれる思い出が生理の話だからだ。サナギの中で青虫は自身の細胞組織を溶かして液状になる。

 タエ子は”生理”および”生理のリエちゃん”を拒絶していた。そして生理とは子供を産める身体になることである。成虫になって交尾の準備ができるようになるということだ。タエ子はそれを嫌がっていた。
 モノローグは続く。

あの頃をしきりに思い出すのは
私にサナギの季節が 再びめぐってきたからなのだろうか…

 タエ子は再びサナギの季節がきているのを予感している。今度のそれは生理ではないことは確かだ。では何か。
 初潮により異性への受け入れ体勢が”身体的”に整ったとしたら、再びやってきたサナギの季節とはタエ子の”精神的”な異性=他者の受け入れ態勢の準備期間なのではないか。
 さて、蝶が出てくるシーンを振り返ってみる。

・タエ子とリエちゃんがくず入れを運ぶシーン

木のところ2匹のモンシロチョウ。Xタエ子、Yリエ。


 このシーンでは2匹のモンシロチョウがひらひらと舞っている。(引き絵なので完全特定とは言えないが、他のシーンを考慮してモンシロチョウとして読む)
 モンシロチョウの習性として、2匹がひらひらと舞っている状況はオスがメスに交尾を迫っているところが考えられる。オスがメスを交尾のために着陸させようとして追いかけているのだ(交尾する際は葉にとまってお尻をくっつける)。

 この時、タエ子とリエちゃんのサスペンダーがXとYになっていることも、生殖を意識づけているように思う。また、タエ子が”赤のX”なのに対して、リエちゃんは”青のY”だ。人間の場合、性染色体の組み合わせがXXの時メス、XYの時オスとなる。Xは女性、Yは男性を象徴的に表しているとすると、赤と青の、男女の象徴的な色があてがわれているのは偶然ではないだろう。特にリエちゃんは男子に女子の秘密を流出させた”男側の女”だ。そして”生理”としてもタエ子にとって”あちら”のグループ、”異なる”グループに入っている。

 タエ子は一度サナギになって蝶になった。身体的には交配、つまり”あちら”と”こちら”の交わりによって新たなものを生むこと(共同作業)が可能である。寝台列車でのタエ子のモノローグ。

私たちは飛び立ったつもりになっていた
しかし 今思えば あれはただ無我夢中で 羽を動かしていただけだったのかもしれない

 身体は良くても、精神は他者と交配する準備が整っていない。それは、本記事で書いてきた通り、十分描かれてきた。

 タエ子はこれまでに男性と体の交わりをかわしたこともあろう。しかし、27歳現在も夢見な空想を広げ、広田くんとの思い出を反芻しているタエ子は、男女の肉体的な接触に対して潔癖なところがあったのではないだろうか?
 羽化した後、一度交尾をしてみてそれ以降は他のオスとの接触を避けてきたのではないだろうか?(モンシロチョウの単婚からの類推)

 冒頭、ナナ子との電話。彼女は「タエ子がお見合いを断って母が怒っていた」と言う。また、休暇をとって”わざわざ”田舎に行くというタエ子にナナ子は言う。

オシャレなペンションなんかで ”おいしい生活”すればいいのに
ステキな彼氏に出会えるかもよ

 この時、熱海の風呂について姉二人がタエ子に大袈裟な話をしている場面が重なる。タエ子はこれに対して、

ダメダメ それじゃあ大野屋の三色スミレ風呂になっちゃう

 過度に期待を募らせた結果、大風呂で卒倒した記憶だ。”三色スミレ風呂”の時のように”ステキな彼氏”などと言う耳障りのいい言葉に今度は騙されないぞ!と言っている。
 ここで、タエ子は”ステキなカレシ”なんて幻想だ、と言っているのだ。
タエ子は男に過度な期待をしていない。あの時、”三色スミレ風呂”は行ったことが無いから、憧れを募らせていたが、”ステキな彼氏”なるものに対して幻想は抱いていない。
姉たちは経験があるために熱海の風呂など面白くないことを知っていたのと同様、タエ子も経験があるので”彼氏”なるもののつまらなさを知っている。もちろん、広田君とのプラトニック・ラブに比べてつまらない。

 このように、お見合いを断ったり、”素敵なカレシ”の可能性を求めていなかったり、男との”交配的”な接触を避けているように見える。
タエ子のお気に入りの男の子は思い出の広田君だ。その思い出の少女漫画的なことと言ったらない。

 そして、タエ子がそんな”交配”的なものを嫌がるような描写が他にある。

 山形駅からの車のシーン。トシオ曰く、去年タエ子がきた時に若い連中みんなでドヤドヤっと彼女を”覗き”にいったと(”覗く”のはトイレや風呂など秘密の空間だ)。
 このドヤドヤっときた連中はタエ子に交尾を迫るオスのモンシロチョウなのではないだろうか。そして、その中に当のトシオもいたことがわかると、急に前にトラックが現れてその話が中断される。またハンガリーの音楽(空想の音楽)も止む。タエ子はその話をしたくなかったのではないか。向けられる男女意識を払ったようにも思う。

 さて長々書いたがやっと次のシーンに行く。

・紅花畑の朝日のシーン

紅花畑を行くモンシロチョウ

 タエ子が紅花摘みをしているシーン。朝日が顔をだし皆で眺める。朝露に濡れた紅花が美しく描かれるシーンだ。そこでひらひらと一羽のモンシロチョウが紅花の中を舞っているところが描かれる。

 前翅の模様の感じからオスのモンシロチョウだと推測してみる。
 すると、これはメスを探してフラフラとやってきたところと考えられる。そしてタエ子の近くを舞って去っていく。まだ、タエ子はサナギとして転生していない、精神的な交配の準備が整っていないので、モンシロチョウは去って言ってしまったのではないだろうか。
 このモンシロチョウはトシオなのだろうか。それとももっと大きな、土地との婚姻をタエ子に求めにきた"山形"なのかもしれない。

 ばっちゃんの朝日に対しての祈りのポーズを、真似てみたり、このときまだ農家との関わりは表面的だ。本格的な”あちら”と”こちら”の交わりは動き出していない。交配はできない。


・引き返すことになる列車のシーン

車内に入ってくるモンシロチョウ

 東京への帰りの列車。おじさんを避けて前の席に向かったタエ子。席の窓からモンシロチョウがふらふらと入ってくる。こちらも前のシーンと描かれ方が同じなのでオスと推測。それをきっかけに小5の面々が座席から顔を出してくる。蝶はタエ子の前を通りすぎ反対の窓から出ていく。
 今度はどうだろう。トシオとのやりとりがあったおかげで、多少は成長できたはずだ(まだおじさんは避けるが)。スキーではなく、農業をしに冬にやってくると約束だってできた。

 新しくまたサナギになり、羽化することで”精神的な”受け入れ体勢をもつことができた。やってきたオスに対して”交配:共同作業”への準備が既にできていた。小五のタエ子が彼女の腕をゆすると、タエ子は立ち上がり電車を引き返す。やってきたオスのモンシロチョウの元へ引き返すため。

 サナギの転生についてのタエ子のメタファーは、肉体的成熟の次にある精神的成熟についての表現なのではないだろうか。(結論だけ書くと普通な感じになったな)

 また、蝶は、多く”分節化”した青虫から、ドロっと”境界”の崩れたサナギになる。そして孵化すると”二対”の羽を使って飛び立つ。たくさんの”あちら”と”こちら”の分断が、”境界の侵犯”をへて、また新たな”あちら”と”こちら”の羽を使って飛び立っていく。こういった解釈もあるかもしれない。

蝶の解釈終わり。

 蝶のメタファーの読み解きが難しかった理由があるなら2つ。
 1つ目、暗喩:メタファーは未分化なものを未分化なママ提示する方法だからだ。読み解きとは常に明示を伴う。常に論理立てて語ることができるものではないし、論理化できない状態の提示がメタファーの機能だからだ。
 2つ目、どこまで描写に意図があるかの判断だ。どこまでわざと描かれているかは判断が難しい。蝶だってオスかメスかなんて描き分けたかどうかは(本編だけでは)分からないし、種類だってアニメで省略されている時点で余白がある。


これで本当に終わりです。ありがとうございました。



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