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読解『おもひでぽろぽろ』 part 5 父はなぜタエ子をぶったか

 ■父はなぜタエ子をぶったか

 現在:山形

 お邪魔している家の娘ナオ子が母に5000円をねだる。プーマの靴が欲しいという。ナオ子は言う「みんな買ってもらってる」。ナオ子はここで”みんな”なるものに同化したがっている。プーマという”あちら”に。
 タエ子はその場面を微笑ましく見守る。すると過去の記憶が蘇る。それは”あちら”への同化と言う点でリンクした記憶である。

 過去:東京 おそらく12月(パイナップルの後)

 父にまた人形の服を買ってもらったことをヤエ子に咎められるタエ子。
父はずいぶんタエ子に甘いらしい。タエ子は焼きそばの玉ねぎを父の方に避けながら文句を垂れる(また好き嫌いしてる)。
 話がうつって、ヤエ子がエナメルのバッグをタエ子にあげることになっていた話になる。タエ子が早くちょうだいよと言うと、ナナ子が口をひらく「早く上げちゃえばいいのに。あんな子供っぽいの」。

 タエ子はそれを聞いて急にいらないと言い出す。タエ子はエナメルのバッグを大人”あちら”のものとして欲しがっていた。しかし、「子供っぽい」と言う言葉でそれは急にタエ子側、子供”こちら”に来てしまうことになる。さらに、子供っぽいものがタエ子の方に来ることで、タエ子自身がより子供側へ押しやられることにもなる。すると、急に憧れもへったくれもなくなり「いらない」となるのだ。

 内部への憧れと言うのは基本的にありえない。憧れとは常に他者に向けて使う言葉だ。自分に憧れることなどできるだろうか。(憧れているうちは外部だということ)

 そうこうしてると父がタエ子の避けた玉ねぎを母に捨てさせる。いざ捨てるとなるとタエ子は焦り、母にやめるように言い出す。しかし、無慈悲に玉ねぎは捨てられる。
 この時タエ子が感じた焦燥感とはおそらく家族から弾かれること、つまり自分のいる”こちら”から拒絶される焦燥感だと思われる。嫌いな玉ねぎを押し付けても何も言わない父に甘えていたタエ子。しかし、結局その玉ねぎは捨てられる運命になり、ヤエ子、ナナ子、母にも「勿体無い」と言われ咎められるのだ。自分がした玉ねぎへの拒絶と同じ力が自分に働いていることを感じたのだろう。

 家族から弾かれる、特に父から弾かれることを恐れたタエ子は、父のご機嫌を肩たたきで取りにいく。エナメルのバッグをねだってみるも失敗。おねだりの肩たたきというよりは、自分が甘えることで父との関係が断たれないようにしているようだ。エナメルのバッグが欲しいのではなくて。

 そして場面は問題の日。
 タエ子と父と母の3人で行くはずだった中華にヤエ子が参加することになる。タエ子はそのことで不貞腐れてぐずって行きたがらない。しまいにエナメルのバッグがないから、と言い出す。みかねた母がヤエ子に、バッグをタエ子に貸すように言う。乱暴なヤエ子はタエ子の頭にバッグを落とす。

 もちろん欲しいのはエナメルのバッグではなく父の寵愛である。父の寵愛とはつまり自分が家族の”こちら”である保証である(中華へ行くメンバーにヤエ子が横入りしてきたこともタエ子の焦燥感を煽る)。なのでタエ子は「行かない」と口にして父の気を引こうとする。

 母は「じゃあおばあちゃんと待ってなさい」と言ってタエ子を置いて出ていく。タエ子、まだここでは不安げな顔に留まる。ついに、父が玄関から顔をのぞいてきて言う「ター坊は行かないのか」と。
 タエ子は父なら自分が来るまで待ってくれると思っていたが、父は逡巡した後、扉を閉めて出て行ってしまう。

 ついにタエ子は絶望の縁に立つ。タエ子は家族から、父から、”こちら”から玉ねぎのように捨てられることを恐れ、「私も行く!」と、靴を履かず玄関から飛び出す。

 靴を履かず、玄関から飛び出す。

 それをみた父は「裸足で」と言いながらツカツカとタエ子の元に近づき、胸ぐらを掴んでビンタをするのだ。タエ子は打たれたことで泣きじゃくる。

 さて、タエ子がしたことは一体どんなことだったのだろうか。実はこれ、逆にしてみると非常にわかりやすい。

裸足のままで自分の家の外にでる
↕︎
土足のままで他人の家に上がる。

 まさしくタエ子が行ったことはこのことと同等で、”あちら”側に”こちら”を持ち出す境界の侵犯なのである。ずけずけと自分の家の事情を外に持ち出したのだ。
 
家の中でならいくらわがままを言ってもよかったが、そのわがままを家の外に持ち出したことに対して父は鉄槌を下したのだ。靴を履くという境界を超えるための手続きを踏まずに飛び出したタエ子を咎めた。

手続き不履行の証拠

 境界を飛び越えて”あちら”に行くことを父は強く咎める。これはタエ子が劇団に入るかどうかの話にも繋がってくる。

 実は上野駅のシーンでこれに関わる描写がある。ホームで老婆が新聞を広げて、草履を脱いで正座しているのだ。ここにはミニチュアの”家”が再現されている。靴を脱いで上がっているが、正直お行儀は良くない。そもそもの話、外部に勝手に家(内)を再現しており内外を侵犯しているからだ。この老婆にもきっと父の鉄槌が下るだろう。

お行儀がいいのやら悪いのやら


 現在:山形

 このタエ子の昔話を聞いたナオ子は「タエ子姉ちゃんが子供の頃、わがままだって信じられない」「なんだか安心した」と言う。タエ子はずいぶんよくできた人間だと思われているらしい(ナオ子はタエ子=東京”あちら”に憧れているのだろう)。
 こんな話で安心されたら困ると、タエ子は似非山形弁でいう。「おがぁさんに申し訳がただね」これは”あちら”になり切る演技である。ナオ子がそれを見て笑う。そして彼女は「プーマの靴を諦める」と言う。タエ子はここで自分の言葉が”あちら”に影響を与えたことに気分を良くする。

 ここで、すかさず『E.T』のパロディー!
 「わがまま娘」で”同じ”になったタエ子とナオ子は見事、異種間交友を達成した。”あちら”と”こちら”の友好的接触だ。ただ、この時E.T側はタエ子であることに注目。山形にいるExtra-Terrestrial(地球外生命体)はタエ子だ。

エクストラ・ヤマガタリアル(右)

 そもそも、なぜナオ子の心変わりは起きたのだろうか。それは彼女にとっての”あちら”、東京娘のタエ子の話だからではないだろうか。ナオ子の母が同じエピソードを話したところで素直に聞くだろうか?
 タエ子はむしろ”E.T”であるからこそ、ナオ子に影響を与えられたと考えられる。

 確かに異種間交友は果たせたかもしれない。しかしそれは”異種の交友”であり、タエ子が”山形”の人間になったわけではない。境界を越えていないからこその交友だ。タエ子の山形弁がおふざけになるものも、彼女が”山形”の人間ではないからだ。


・余談
 ジブリ飯!と言うくらいジブリといえば食べ物の描写が良い!と言うのが定説ですよね。『おもひでぽろぽろ』も例に漏れず。ただ、それは食べ物が無慈悲に捨てられる描写です。冒頭のパンに挟んだなます、避けられた玉ねぎ、ゴミ箱には行きませんがパイナップルも。ちょっとこちらが居た堪れなくなるほど無慈悲に。しかもこの作品が農業を題材にしている、というところも居た堪れなさに拍車をかけます。さらに興味深いことはタエ子がやる紅花摘みは生存ということからは遠いところにあることでしょうね。
 最近はアニメに食べ物が出てくるとこだわり度チェックのように働いていてやたらに濃く描写されているように思います。ハイライトバリバリの映える美味しそうな感じで。作る側が変に意識しててその意識が作品から飛び出してきてしまうようなこともありますよね。食べ物だからこう描く、ではなくどのように食べ物を描くか、食べ物によって何を描くかを考えるべきでしょう。



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