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読解『おもひでぽろぽろ』 part 8 タエ子はどうして演技が評価されたか

■タエ子はどうして演技が評価されたか

 タエ子、トシオ、ナオ子で夕暮れの中散歩する。夕陽に向かって飛んでいくカラスをみてタエ子が急に演技を始める。

あ カラスがお家へ帰っていくわ ー羽…

 それは5年生の時の学芸会のセリフらしい。タエ子の役は村の子1。セリフは一つだけだった。タエ子はそのセリフが一生忘れられないものだと言う。その時の演技のおかげでスターになれたかもしれなかったらしいのだ。


 過去:東京 11月

 鏡の前で猛練習をしたけどの物足りない。なのでタエ子はセリフを勝手に増やしてみた。しかし、教室での練習の際、先生に台本にあるセリフだけをいいましょう、と注意を受けてしまう。
 タエ子はそれで意欲を失ったわけではない。学芸会当日。本番の場でタエ子はアクションを起こす。セリフを増やしてはならないのであれば動作で表現を追加しようと思ったのだ。
 そして村の子1の出番がきた。タエ子は例のセリフを発した後、小さくカラスに向かって手を振り、ふっと息を漏らす演技をする。

 この”村の子1”の演技は好評になり、ついぞ、日大の演劇部から子役として劇に参加してくれとのお誘いがくる自体に。

 さて、ここで”演技”というものについて考えてみる。今までも作品の中で何度か演技が描かれていた。ナオ子との会話で山形弁を真似たり、トシオが先輩の受け売りの言葉を真似てみたりするシーンが描かれている。
 この時、彼らがやっていることは”他人:あちら””自分:こちら”に落とし込んで再現、エミュレートすることだ。つまり、演技とは”あちら”を”こちら”の中に取り込んで模倣することだ。それは一種の境界侵犯でもある。

 タエ子は、村の子1を心の中で作り上げ、それを再現した。その時の情景をできる限り想像して、身体的な動作まで再現してみせた。
 良い演技、リアリティのある演技とはまさに、遠くにある”あちらの作品内世界”を精度の高い模倣によって演者、観客のいる”こちらの現実世界”の中に再現する演技なのだ。
 良い演技によって現実を忘れさせられるのは、”あちら””こちら”に見事に再現されることで、境界を超えて観客が”こちら”にいながら”あちら”に行ってしまう、”あちら”に同化させられてしまうものだからだ。

 本編に戻って、
 日大のお兄さんがやっきた時、タエ子は『ひょっこりひょうたん島』をみながらキャラクターの動きを模倣=演技している。おそらく、学芸会の演技が褒められたからであろう。タエ子は、母と日大生が話しているところを盗み聞き、”大人:あちら”と一緒に演技できるかもしれないことを嬉しがる。(エナメルのバッグ)

 そして、タエ子の思考は飛躍する。大人と一緒に演技する=スターになる、というふうに結びつける。大人はもちろんタエ子の”あちら”、そしてスターなる人々もTV画面、雑誌の向こう”あちら”にいる人々である(他者への憧れ)。
 タエ子の空想は止まらない。空想コラージュによって雑誌の表紙はタエ子の顔にすげかえられる

"他人:あちら”の顔を”自分:こちら”の顔で塗り替える

 さて、一通り興奮が収まったタエ子は母の元に向かう。すると、母はものすごく上機嫌。頬に線が入るほど。
 夕食の時間、タエ子が日大からお誘いがきたことを話している。家族の女子全員が楽しそうにその話で盛り上がる。祖母も今までない笑顔をみせる。女子達の華やかな世界への憧れが垣間見える。タエ子は自分が褒められて上機嫌。じゃあ、日大の劇に参加するのか?とヤエ子が問うと、沈黙。

 決定権は父にある。父はまだ口出しせずに新聞を読んでいる。もしかしたら本職の子役になれるかもね、とナナ子が口をひらく。ヤエ子も乗っかって「宝塚入りなさいよ」。

父がようやく口をひらく「演劇なんてだめだ。芸能界なんてだめだ」。

この発言で女子ら撃沈。あーあがっかり。特に母の沈み様はすごい。

 さて父が演劇なんてダメだと言うのはなぜだろう。タエ子が打たれた時を思い出してほしい。その時、彼女は靴をはかず”あちら”と”こちら”の境界を超えた。
 
そして、演技とは先に記した通り一種の境界侵犯である。特に芸能とは自分自身のプライベート、”こちら、家の中”なども商品となってしまう世界である。それを物語るように、タエ子の妄想の中で「岡島タエ子ちゃんのおへや拝見!」と銘打って”室内”が映し出されたり、スタータエ子のプロフィールとして”家族構成”が紹介されている。

岡島タエ子ちゃんの個人情報1
岡島タエ子ちゃんの個人情報2

そういった”あちら”と”こちら”の境界が淫らに侵犯される演劇、芸能なるものを父はタエ子をぶった時の様に咎めたのだ。(時間軸的には、打たれるのはこれより後だと思われる)
 ただ、これは父の作品内の象徴的な理由である。父の心情的な理由は付録記事で解きほぐす。

 父の許可が降りず、日大生のお誘いは断ることになる。
 この時、母は断る理由として「恥ずかしがって」「内気なもので」と建前を述べる。農家の貼り付けた笑顔と同じ”あちら”に対しての表面的なセリフである。「恥ずかしい」も「内気」もタエ子の実情とは遠い。でも実情との差がわかるのは、”こちら:岡島家”の側に観客がいるからだ。日大生からしたらそんなことはわからない(農家の貼り付けた笑顔の裏事情は分からない)。

 結局、タエ子は劇に参加できず、彼女の代わりは1組の青木さんになったという。そのことで愚痴っていると、母に「はじめに誘われたのはタエ子だ、と言うのは言っちゃダメだ」と言われる。「青木さんが嫌な気持ちになるでしょ?」と続ける。ここで母は青木さんの心を”エミュレート”している。そして、タエ子にもそれを求め、
 「わかったの?」と念押しに2回言う。タエ子は仕方なく頷く。
 「わかったの?」というのはつまり、自分と今「同じところ」”こちら”にいるか?「同じ」かどうかを問うているのだ。違うと言えば仲違いである。

 その後トボトボと歩く二人が描かれる。タエ子の心の中で『ひょっこりひょうたん島』のテーマが流れ出す。彼女はそれを声に出して再現し、歌に同調、同化していく。それによって自信を励まし、前を向いて豪快に歩き出す。
 もちろん、タエ子の心情が急に変わったわけではない。彼女は悔しい思いや残念な気持ちを抱えているが、『ひょうたん島』の前向きな歌を模倣し、豪快に前にすすむ歩き方を模倣し、その”形”を先取りして自分の心に整理をつけようとしているようだ。前向きになったから前向きな歌を歌い出したのでなく、前向きな歌を歌うことで前向きになろうとしていたのだ。

 トシオのもつ”勢い”と同じものを使って、自分を変えようとしている。


 ここでは模倣の”境界侵犯性”と同時に、模倣の”勢い”によって人が成長していく過程も描かれている。このような価値中立的な描き方については高畑勲は逸品である。

 母のひどい落ち込み様は以下の記事が面白いです。


 さて、タエ子がどうして演技が評価されたのか。
 タエ子が憧れがちな子であるのは今まで存分に描かれてきた。タエ子は”あちら”に憧れ、同化したいと思って、そしてアクションを起こす人間である(田舎に憧れ、農家にお世話になりにいくなど)。
 その同化したいと思う欲求が「演技」という技に必要なところと合致したため、学芸会で彼女はいい演技ができたのだろう(「役に”入る”」という表現をするが、反転すると「自分から”出る”」とも言える。空間的にどこかへ移動している。境界を超えて”入る”のだ。)。


■トシオの同じ。トシオと同じ。

 現在:山形

 タエ子は高校生になると演劇部に入ったそうだ。そこで自分に才能がなかったことに気づいたという。だから、スターになり損ねたのは冗談だと彼女は笑って話す。
 その時、真剣な表情をしている男がいる。トシオだ。

オヤジってのは東京も田舎も同じようなものだったんだなぁ。

 この人、分数のとき同様、タエ子の話を自分ごとに持っていっています。つらつらとトシオは話を続ける。彼は高校の頃、どうしても東京に出たかったのだという。すごい真剣に話すもんだから、タエ子が笑って和まそうとした場がしんみりしだす。タエ子は「そうだったんですかぁ」となんだか魂のこもってないセリフを吐く。上司の話を聞いているような具合だ。一通り喋ったあと、トシオが言う

でもわかるなぁタエ子ちゃんの気持ち

 先の青木さんについての母の発言と同じ「わかる」という言葉。トシオはまた強引に「同じ」だといっているのだ。タエ子と自分の後悔についてもそうだし、"東京:あちら"と”田舎:こちら"のオヤジについても。
 タエ子はそれを聞いて、私のはただの冗談(そんな真面目な話でない)だと弁解する。「同じ」じゃない、と。それでもトシオは引かない

いや同じですよ わがりますよ

 「同じ」で「わかる」らしい。二段式だ。
 トシオはおもむろに『ひょうたん島』の歌を歌い始める。トシオも子供のころ『ひょうたん島』を見ていたとのこと。タエ子はそれを聞いてずいぶん嬉しそう。トシオの話はやっと自分でも「同じ」だと思える話になってきたからだろう。さらに二人とも「マシンガン・ダンディ」が好きだと言うことでさらに共鳴する

 トシオがあの時は励ましの曲が多かったと言って歌を口ずさみ出す。歌を知っているタエ子が徐々に同調して二人で歌い出す。同じ歌を二人で歌いあった後、一笑。(「曇り」が好きで「同じ」)
 ふたりが『ひょうたん島』によって同じになった。二人が東京と山形にいながら時代的には同じ”こちら”にいることが判明する。その世界の外野であるナオ子は「変な歌」と笑って言ってみせる。

 この後、遊んでいる3人を遠巻きに見つめるカットになる。タエ子はモノローグで「今日がダメなら明日…という一日のばしの歌を”明日があるさ”と前向きに覚えていた。トシオの生き方が素敵に思えた」と語る。
 この時には例のルーマニアの音楽が流れている。これは理想の音楽だ。おそらくこの時のタエ子の心情では、「田舎の素朴なスローライフな人」という具合にトシオを捉えているのではないか。タエ子の頭の中ではそんな田舎原住民との「ウルルン滞在記」の真っ最中なのかもしれない。

 さあ、物語は佳境に迫ってきました。次回ぐるっと展開が動きます。
 次回、タエ子は境界を超えて”山形:こちら”にくるように言われる。


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