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とレンズ氏のまじめ帳

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私のまじめな記事セットバーガーです。(フィレオフィッシュ)
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記事一覧

明日日記【2020年6月19日】

俺の普通日記私は一日の終わりにPCでWordを用いた「日記」を書く習慣をつけている。 その日記の最後には翌日の1日の流れを書く。こうすることで、なんだか休日などを無駄にせず有意義に過ごせるし、平日だって「やり忘れ」が少なくなる。いい習慣だ。 さて、タイトルにもある「明日日記」について語りたい。 「日記」という単語には その日いちにちの事柄の流れを記し、またその時の感情や感覚、思考を書き留めておくもの。 というような意味合いがあると思う。(この引用は私の頭の中からの引用

書店のサインは誰が書くのか?【2020年4月11日】

飾ってある作家の「サイン」は誰が書いているのだろう。俺のではないな。 今はこんな状況だから久しく本屋に行けていないが、ずっと前から疑問だった。そりゃ○○先生のサインは○○先生が書いているのだろうけれども。 私が持つ疑問がなにかというと、作家はみんな本屋に行ったときに、 「私こういう者でして、この本を書いたんですよ~」 なんて店員に言いに行くのだろうか。 なんだか自惚れというか、上からと言うか、図々しいと言う。 とにかく恥ずかしくないのか。 私なら絶対言い出せない。出し

その気遣いは本当に私の為か?【2020年4月10日】

【心臓の弱い方はご遠慮ください】や 【食事中の方ごめんなさい】や 【※グロ注意※】など。 おやめください。想像してしまいます。 【はじめに】世の気遣い世の中には、こちらを気遣ってメディアに注意札を立ててくださる丁寧なお方がたくさんいる。私もそのおかげで強いショックを予期して”いなす”ことができたのは一度ではない。 ただ、そういう「注意書き」は何が来るのかを予期=想起させる。 もう想像させてしまっている時点でダメなのだ。終わりなのだ。 【本文】絶望の”点”と”面”

カレーを、肉がとろけるまで、煮込むな。【2020年3月6日】

タイトル通りである。そこまで煮込むな。 食堂のカレーは煮込まれすぎてか、そもそも入れてないのか、具がない。 過疎カレーである。 パウチ入りのカレーも同様「過疎カレー」。 なんならパッケージには「とろけるまで煮込んだ云々」の文字。 もう煮込むな。 【はじめに】カレーを、怒り心頭である。ここがアメリカだったら訴訟も辞さない。日本だったら消費者センターに駆け込む。 さて、カレーを煮込みすぎるな。 人間の食事は実に豊かな行為だ。栄養摂取の一面だけを切り取ればサプリメントを飲

二元化した世界と、再顕現する原子論【2020年3月22日】

世界が二分されたのはいつであっただろうか。 私の記憶では2017年がその境だったと思う。その頃と言えば、そんな分断の仕方をするやつはネットのスラリングを使っちまう「イタい」やつだった。 けれども、今では、世界が当たり前に、なんの躊躇も色眼鏡もなくその二陣に分けられている。 あの日、人々は「陰陽キャ二元論」に染められたのだ。 見どころ:目次から飛べる「【ありがたいお話】個性とは」です。これは昔ラジオで聞いたお話で納得のいい話です。 【はじめに】陰陽2極主義要約:世界は

歌いながらもセレンディピティ【2020年3月15日】

私はその体質と門出の問題で、カラオケに行くことができない。 しかしよく風呂とかで歌ってる。 【導入】鼻歌に断罪は必要ないさて、鼻歌を歌うのは気持ちが良い。しかし他者がルウルウ歌っているのを聞くのはどうにも腹立たしい。 理由は単に声が気に入らないとか、音程が違うとか色々あるが、なにより、 「歌詞が間違っている」ことが大きい。 歌というのは「歌詞」×「メロディ」でできている。単純に考えて歌詞の間違いというのは50%の価値を減少させていることに他ならない。全くアホである。

牛乳の代わりにリステリン(紫)【2020年3月11日】

牛乳の代わりにリステリンを含んでみてはどうだろうか。 お笑い動画を口に牛乳を含みながら観る。あるあるではないにしろ、まあ見がちな光景である。 しかしどうだろう。そのまま牛乳を吹いてしまってはもったいないし、絵面としては派手だが些か合理的ではない気がする。(こんなのに合理性を求める事こそ合理的でないが。) ですからここに再度提案したい。牛乳の代わりにリステリンを含んでみてはどうだろうか。 そのメリットを説明したい。 1.歯の健康に貢献する。 2.元々含んだあとに吐くも

「未知との遭遇」、宇宙人のソウテイ【2020年3月5日】

【導入】私の映画録今日はGEOの旧作100円に惹かれ、「未知との遭遇」を借りてきた。 そして観た。 私の家系には映画を観る習慣と文化がなく、メディア作品のネタについていけない節がある。 そのため最近は古典を中心に、店舗で目に付いたものを借りる機会が多くなった。というか多くした。 このごろ借りて観た作品で言えば、 「ゴーストシップ」 「暁に祈れ」 「紳士協定」 「ファイト・クラブ」 「ショーシャンクの空に」 「スイス・アーミーマン」 「運び屋」 「スターリン葬送狂騒曲」 「

「隣の回復するやつから」と←メタあるある【2020年3月4日】

昔、土器を焼いてた写真です。あと 「主人公って大体炎使いだよな」ってよく耳にしますよね? 【導入】「社会の質」と「あるあるネタ」昨今、情報社会が急進し、知らんやつともかかわることが多い。故に、現代に求められるのは一般的コミュ力(注1)である。 甚だ面倒である。 知らんやつとの会話において、私たちは、当たり障りのない内容で、後味のよいインタラクションを共に体験‐共有する必要がある。全ては「次」につなげるためである。 面倒である。 面倒なのである。知らんやつの「地雷

写真、あるいは自身の顕れについての考察[前編]

はじめに私は写真について、ひとつの思想を持つ。 その写真は自身の顕れるものであってほしいということだ。 要約:自分の手で撮らなければ、作品ではない。一眼レフ使え。 本文①、「私で」撮りたいのだという事さて、かっこつけすぎた。 以下写真をスマホで楽しく撮りたいという皆さま方、そして美しい写真を撮る皆さまには不愉快であろう。しかし、一読して考えてみてほしい。よろしくお願いいたします。 本文である。 昨今、スマホで写真を撮ることが多い。私も一眼レフを祖父から頂戴し、所持こそして

バースデイの連綿

今日は母の誕生日でした。 なんとも不思議ですね、自分を創造した人間が創造された日だなんて。 浸れん私たちが生き物である以上、ずっと過去には「始まり」がいるわけです。(ミトコンドリア・イブというものでしょうか。) 大歴史、人類史を振り返るとき、人はたいてい「大いなる歴史の先端に私は生きているのかぁ」と感銘の内に浸れそうなものですが案外そうもいきませんね。 前述のとおり、私の捉え方としては誕生日とはすなわち「創造の日」であるわけですから、「創造につくられた創造につくられた.